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あしあと

    19普請役と用水管理

    • [初版公開日:]
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    普請役とは?

    普請役とは、用水管理・用水差配の監督をする幕府の役人であり、用水の通水時期から二百十日過ぎまで現地に赴いていた。笠原沼代用水を管理していた普請役は、篠津村(白岡町)の詰所で勤務していたようである(第四章番号五三)。水田への水配が行き渡ると、田植え時に「田方植付証文」を普請役へ提出する。東粂原村では、文政四年(一八二一)に、村高及び領主であった堀田相模守と旗本渥美氏・細井氏の田高・反別を記し、用水がよく行き届き、田植えも五月二十三日から六月五日までに全て終了したことを普請役へ提出していることがわかる(第三章番号三四)。黒沼笠原沼代用水組合では、嘉永六年(一八五三)の「用水不用証文」の提出が確認できる(第四章番号四九)。また、東粂原村でも、文化六年(一八〇九)に名主幸右衛門らが、見沼代用水元圦の下中条に詰めていた普請役に提出している(第三章番号二四)。このように村々では普請役の用水差配が終了する頃になると「用水不用証文」を提出し、普請役は任務を終えるのであった。

    普請役と御普請・自普請

    堰などの用水施設は、普請役が見分して修理、伏替などの普請が実施された。普請役の見分が行われる前には、村からの願書が出され普請に際する要望が提出されるのである。笠原沼代用水では、天明六年(一七八六)の大洪水の影響で被害が大きかったため、用水路の修復にかかる全費用を幕府に負担してもらうことを願い出ていることが確認できる(第四章番号三九)。
    東粂原村の用水施設では、弘化三年(一八四六)に字馬頭観音脇の関枠、字神明の土橋、字五丁の掛渡井の普請について御普請を願い出ていることが確認できる(第三章番号六八)。御普請とは、普請にかかる費用を幕府や領主が負担することをいい、一方、村ですべてを負担する場合は自普請という。弘化三年は、利根川・荒川が決壊し、江戸まで出水した大洪水であった。そのために用水施設の破損状況が甚大であり、村での負担で難儀であるとして、御普請での修復を領主に頼んでいた。
    御普請とは反対に、西粂原分水堰を村々が自普請で修理をしている例も確認できる(第四章文書五一)。先に述べた一一カ村組合で普請費用を負担しており、東粂原村は、四貫二六八文を負担していることがわかる。このようにして用水施設の普請が行われ、用水が滞らないように常に村々でも管理・維持が行われていた。

    字馬頭観音脇堰枠の写真

    字馬頭観音脇堰枠

    西粂原分水堰の写真

    西粂原分水堰

    惣代と用水組合

    長い流路を持つ用水路は、一つの村での管理・維持が困難であったということからも、用水組合を基本に近隣の村々との連携が保たれていたのだった。惣代を中心に普請費用や人足、用水配分調整の取り決めなどを行っていた。東粂原村では、名主が西粂原分水堰の普請割合についての寄合に参加していることが確認できる(第四章番号五四)。また、笠原沼代用水が通水される際に、東粂原村などで見廻りを行い、通水の状況を確認するようにとの要請が廻状で出されている(第四章番号四八)。このほかにも、用水路に通水がされると、水路の底の藻などを取り除くために藻刈が行われるが、その際に普請役の見分の案内役として東粂原村などから人員を出すようにという廻状も出されている(第四章番号五二)。
    このように用水を利用する村々は、互いの利害等を調節しながら必要な用水を確保していた。農業生産が中心である江戸時代の村々にとって、用水の確保は必要不可欠なものであった。そのため、用水の上流と下流の村々などで利害の対立が生まれ、しばしば争論が引き起こされている。

    笠原沼代用水をめぐる争論

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