ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

あしあと

    06笠原沼代用水をめぐる争論

    • [初版公開日:]
    • [更新日:]
    • ID:2398

    除堀堰をめぐる争論

    文政十年に黒沼代用水と分水する除堀堰をめぐる争論が確認される(第四章番号四四)。この争論は、黒沼用水組合と笠原沼代用水組合との間に起こった争論で、除堀堰の改修に際して、黒沼用水組合側が堰の形を変えたいと願い出たことが起因であった。これに対し、笠原沼代用水組合は、堰の形を変えると用水が行き届かなくなり、困難が生じることを申し出ている。これまでの堰の形でも、渇水の際は両組合で相談し、番水などを行いながら配分してきたので特別に問題はなく、形を変える必要はないというのが笠原沼代用水組合の言い分であった。
    この対立の結果は、天保九年(一八三八)の「黒沼圦樋模様替不用願」に「文政拾亥年中、黒沼圦樋関枠江御模様替被請出候ニ付、其節御普請御掛り様江難渋之始末御歎願奉申候処、願之通り御居置被成」と記されており、文政十年の対立は、笠原沼用水組の願いが聞き入れられ、堰の形は変えられなかったことがわかる(第三章番号六〇)。
    この除堀堰をめぐる争論は、黒沼用水組合と笠原沼用水組合における組合内での利害対立を知ることができる。両者は黒沼笠原沼代用水組合として用水の利用における共同性の維持を図る一方で、時に対立を経たうえ利害の調節を行っていた。また、一つの用水施設がわずかに形を変えることでさえ、今までの水利慣行に変化が生じ、村々にとって水田を耕作できるか否かという死活問題であったのである。

    文政10年 除堀分水模様替不用願書の写真

    文政10年 除堀分水模様替不用願書

    西粂原分水堰をめぐる争論

    西粂原分水堰をめぐる争論は、寛政二年(一七九〇)に、堰の南側の百間・百間西・百間東村(以上宮代町)・爪田谷村(白岡町)と北側の東粂原・中島村(以上宮代町)との間で生じていることが確認される(第三章番号一九)。これは、北側が低地で用水が必要以上に流れてしまうため、南側に用水が行き届かないので、箱樋を構築して通水量を調節しようとした際に起こった争論であった。工事の着工を前にして、中島村の農民が取り決めを破談したため対立したが、箱樋を構築することで決着している。また、文化六年にも北側と南側での用水の藻刈に際し争論が起きている(百間村大高家文書一)。

    西粂原分水堰争論絵図の写真

    西粂原分水堰争論絵図

    野牛村・高岩村の堰枠をめぐる争論

    寛延三年の野牛村・高岩村(以上白岡町)の関枠をめぐる争論が確認できる(第四章番号三三)。東粂原村をはじめとする笠原沼用水組合の一一カ村が野牛村・高岩村の関枠の内、野牛村の関枠を取り払って用水を分配することを願ったが、野牛村・高岩村の二カ村は耕地が高場にあるため用水が行届かなくなるということを理由に、関枠の取払いはできないとしている。これに対して普請役の見分・吟味が行われた結果、野牛村・高岩村の言い分が認められ、関枠の取り払いは実施しないこととなり、堰の取り決めがされている。

    寛延3年 用水堰枠覚の写真

    寛延3年 用水堰枠覚

    江戸時代の村にとって、農業生産と直接的に結びついていた用水の利用は、村にとって重要な問題として考えられていた。また、一つの村のみで決定および解決できる問題ではなく、東粂原村がいくつもの組合に属していたように村々が共同で管理を行っていたのである。

    *第○章番号○○や文書番号○○とは宮代町文化財調査報告書第12集『東粂原村岡安家文書』の番号である。
    *本文章は本報告書第1章第4節を抜粋したものである。

    お問い合わせ

    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

    電話: 0480-34-8882

    ファックス: 0480-32-5601

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム