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あしあと

    第44回 作品紹介(28)『亜細亜の光』

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    • ID:2780

    前回紹介した「みずゑの思い出」に次いで、盛助の作品が掲載されたのは昭和七年六月のことで、同じく「山形高等学校校友会雑誌」(以下、「山高雑誌」とします。)第二十四号から第三十六号までの間の六回にわたってでした。作品はエドウィン・アーノルド作の「アジアの光」を翻訳したものです。この翻訳の一部が「山高雑誌」に掲載された後、未掲載の分も合わせた完訳が昭和十五年に岩波文庫から出版された経緯については、この連載の第十五回で紹介しています。
    さて、盛助はいつ、そしてなぜこの作品を翻訳しようと思ったのでしょうか。
    その答えは、岩波文庫から出版された島村苳三訳「亜細亜の光」の巻末にある、訳者自身が書いた解説にありました。解説の前半分には、作者であるアーノルドの経歴や他の作品も含めた評価を述べ、そして後半分に、翻訳を思い立った時期や、完成するまでの経緯について明らかにしています。
    「此の叙情詩の翻譯を私が思ひ立つたのは、まだ學生の頃なのだつた。その頃の學生の間に此の詩はかなり讀まれてゐた。」
    アーノルドの作品は、その原題を「THE LIGHT OF ASIA, or THE GREAT RENUNCIATION」といいます。一八七九年(明治十二年)にロンドンで初版が発行されたこの本は、それまで仏教に関する著述が無く、学者の間ですら十分な研究が遂げられていなかったヨーロッパにおいて大変注目を浴びました。
    日本での最初の翻訳本は、明治二十三年(一八九〇)に出版された中川太郎訳「亜細亜之光輝」ではないかと思われます。ただし、当時の盛助がこの翻訳を読んだかどうかは分かりません。なぜなら当時の学生達は、私たちが想像するよりも多く、原典もしくは原典に近い状態の言語で外国の書籍を読んでいたからです。
    「しかし、此の翻譯を企てたのは、少年の頃に讀んだ萬亭應賀の『釋迦八相倭文庫』の懐しい思ひ出からであったと思ふ。あの雙紙の悉達多のやうに描いた讀物があつて然るべきだと思つたのだつた。」この『釋迦八相倭文庫』とは、江戸時代の草双紙作者である万亭応賀が、弘化二年(一八四五)から明治四年(一八七一)にかけて執筆・刊行した、五十八編二百三十二冊にわたる釈迦の一代記のことです。少年の頃の盛助がどんな本を読んでいたのか、その様子がうかがえるようです。
    「かくて、大學を卒業した頃から、此の翻譯に着手したのであつたが、幾度か中絶し、更にまた継續し、殆んど三十年の月日を經て、近頃漸く完了した。佛教に關する知識を有たぬ私にはかなり困難な仕事ではあつたが、何ものにか強く心を引かれつつ兎に角ここまで遣つて来た。翻譯の文體も、最初は自由詩形を用ひてゐたが、何度となく草稿を改めてゐるうちに、自づから此のやうなものになつてしまつたのである。」
    平成十五年度の特別展の際に、この島村苳三訳「亜細亜の光」の自筆原稿を展示しました。自筆原稿は黄色い布の表紙がつけられて、三冊に製本されています。どれも原稿用紙に翻訳文が書き込まれたものですが、第一巻は初稿、第二巻は第二稿、第三巻は第三稿という内容です。いずれもこまごまと書き込みが加えられており、盛助自身が述べているように、刊行までの間に何度も中断・校正を行ってきた様子がうかがえます。

    亜細亜の光原稿 初稿から第三稿

    「亜細亜の光 原稿(初稿~第三稿)」

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