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あしあと

    第16回 島村家の系譜(15)

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    島村盛助(10)

    昭和十九年七月、盛助は旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)を依願退職しました。
    当時は太平洋戦争の真っ只中であり、戦局が大変厳しくなっていった時期でした。学校に軍部の人間が配属されるようになり、また、英語は「敵国語」とされたことから、それを教える教授たちは冷遇を受けていました。
    退職後、盛助は郷里の百間村(現在の宮代町)に戻り、晩年を過ごしました。
    昭和二十年八月に、多くの犠牲を経て太平洋戦争が終結すると、盛助を取り巻く環境も大きく変化しました。
    昭和二十二年四月から、盛助は埼玉県立川越中学校(以下、「川越中学」とします。)に週二日出講するようになりました。ちょうどこの頃、山高在任中から手がけていたP・B・シェリー作「プロミシュース解縛」の翻訳を完成しました。そして、ミルトン作「失楽園」の翻訳に着手しました。この翻訳は四年後の昭和二十六年七月に完成しました。「失楽園」翻訳の完成に先立つこと同年三月には、岩波英和辞典の新増訂版が刊行されており、「失楽園」の翻訳と、辞典の増補改訂作業が同時期に進められていたことがわかります。
    盛助は川越中学のほかに、埼玉大学や母校の東京大学(旧制第一高等学校)にも出講しましたが、健康がすぐれなくなったことから、昭和二十六年十月にそれぞれを退職しました。
    体調不良は、彼の作品にも現れています。昭和二十六年十一月二十三日、盛助の娘の百子さんが勤めていた百間中学校に、念願の校舎が竣工しました。盛助はこれを祝って俳句を詠んでいますが、この俳句が書かれた短冊の裏面には妻の朔さんの字で「絶筆」と書かれています。盛助最後の作品となりました。
    昭和二十七年四月二十二日、療養の甲斐なく、盛助は自宅にて病没しました。享年六十七歳。法名は教覚院雄盛苳三居士。西光院にある島村家累代の墓所に埋葬されました。
    (次回からは、盛助の作品についてご紹介していきます。)

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