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あしあと

    11.中近世の遺物2

    • [初版公開日:]
    • [更新日:]
    • ID:2722

    志戸呂焼

    志戸呂焼の写真
    静岡県金谷町で焼かれた焼物です。形態は瀬戸焼と同じようですが、胎土がこげ茶色なのが特徴です。戦国時代末期の志戸呂焼の製品が出土している宮代町周辺の遺跡は、忍城(行田市)、騎西城、岩付城などいずれも城跡ですので中寺遺跡に居住した人々もこれら城郭と係わりがあったと考えられます。

    青磁

    青磁の写真
    中国の龍泉窯で焼かれた磁器で、やや青みがかっているのが特徴です。宮代町では地蔵院遺跡や中寺遺跡で少量出土しています。

    古銭

    古銭の写真
    今からおよそ1300年前、和同開珎と呼ばれる銅で造られたお金や、奈良時代から平安時代にかけては銅の他に金や銀で造られた皇朝十二銭と呼ばれる12枚のお金が造られました。しかし、一部の貴族の間での使用はありましたが一般の人までには広がらず、958年にはお金が造られなくなりました。その後、商業が発達し貨幣が必要となりました。
    そこで、中国からお金を輸入する(渡来銭)ようになりました。中国では宋という時代にあたり、宋で造られたお金を宋銭とよび、鎌倉時代に大量に輸入して日本でのお金として使っていました。また、1貫文(=1000文)で米1石(約150?)の価値がありました。
    その後、中国では宋の時代が終わると明の時代が訪れ、明で造られたお金を明銭と呼び、室町時代にしばしば輸入されました。
    渡来銭は一定の輸入が行えず、不足を招いていました。そこで、明銭の輸入と同時に中国や日本では明銭を真似て造り、文字も不明で品質が粗悪な模鋳銭や私鋳銭が見られるようになりました。特に永楽銭(永楽通宝)を良いお金(良銭)、それ以降の模鋳銭や私鋳銭は品質が悪いためびた銭と呼ばれ両者の区別がはっきり行われました。

    板碑

    板石塔婆は、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた追善供養や生前供養、墓碑として建てられたものです。秩父の長瀞付近で採集される緑泥片岩を材料としています。梵字などは生産地で刻まれ、戒名や年号は地元で刻まれました。中寺遺跡の板石塔婆は、井戸の中から投げ込まれたような状態で発見されました。

    お問い合わせ

    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

    電話: 0480-34-8882

    ファックス: 0480-32-5601

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