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あしあと

    第13回 島村家の系譜(12)

    • [初版公開日:]
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    • ID:2718

    島村盛助(7)

    大正九年七月十五日の読売新聞に、盛助に関する記述が見られます。「文芸」ページの「よみうり抄」というコーナーにあるその記事には、次のように書かれています。
    「島村苳三氏 新設山形高等学校教授に任命され此程赴任目下同市七日町山形ホテルに寄寓中である。」
    読売新聞は小説「貝殻」をはじめ、数作品を発表した新聞であり、ペンネームで動向が紹介されていることからも、作家として認識されていることがわかります。
    同年九月に山形高等学校(以下、「山高」とします。)が開校すると、盛助は英語科の学科主任に、また、理科一年甲一組の担任となりました。このとき担任した学生の中には、美術評論家で京都国立近代美術館の館長を務めた今泉篤男氏がいました。
    開校当初は一学年しかなかった山高が、三学年まで揃った大正十一年の十月、盛助は文部省から「英語科及語学教授法研究」のため、一年半のイギリス在留を命じられて留学しました。翌年の十二月には帰国したようなので、ほぼ一年間の留学であったようです。
    在英中の盛助の様子については、日記やそのほかの記録類が見つかっていないことからわかりません。どこに住み、どのような勉強をしたのか。何を見、何を思ったのか、とても興味がわきますね。
    在英中の盛助の様子を伺えるものを、一つだけ、山高の校友会雑誌に見つけることができました。昭和七年二月発行のこの雑誌には、「みづゑの思い出」と題し、留学時代の思い出話が随筆として載っています。
    この作品には次のエピソードが伝わっています。作品のタイトルを見た学生たちが、「厳格な島村先生が、みづゑという女性の話を書いた。」と勘違いをしたが、実は留学時代に楽しんだ「水絵」つまりは水彩画にまつわる話であった、というものです。本文を読んだときの、ちょっとがっかりしたような学生たちの顔が思い浮かぶようですね。

    島村盛助写真

    オックスフォードにおいて

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