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あしあと

    09.中近世の遺跡

    • [初版公開日:]
    • [更新日:]
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    中近世の宮代町

    鎌倉街道の写真

    鎌倉時代になると鎌倉街道(上写真)と呼ばれる鎌倉へ通じる道が宮代町を通っていました。街道沿いの須賀郷や久米原郷は市場も立つほどの賑わいであったようです。発掘調査が実施されていないため詳細は不明ですが、百間地区の西光院周辺と鎌倉街道沿いの須賀や久米原は町場や宿が形成されていたと推定されます。室町時代後期(約500年前)になると地蔵院遺跡で中世の遺跡が発掘されています。堀や竪穴状遺構(工房など)の他、中国産の青磁や瀬戸産の陶器なども出土したことから、武士の館跡と推定されます。戦国時代には百間東の武将鈴木雅楽助が岩付城などで活躍する様子が古文書から知ることができます。雅楽助の館跡と考えられる中寺遺跡では、井戸や掘立柱建物跡なども多数出土しました。安土桃山時代から江戸時代初頭(約400年前)になると百間3千石の領主服部権太夫の陣屋が西原地区に造られました。資料館周辺の地蔵院遺跡ではこの陣屋とほぼ同じ時代の堀などが発掘されていますので、これらの堀は服部氏の家臣の屋敷地である可能性が高いと推定されます。

     

    中近世の遺跡

    地蔵院遺跡

    地蔵院遺跡の写真

    約520年前の室町時代後期には武士の館跡が検出されています。郷土資料館の発掘調査ではこの時代の堀が、ふれ愛センターの建設では倉庫や工房などと推定される方形竪穴遺構が多数検出されています。出土遺物は在地産(素焼き)の擂鉢や内耳土鍋、カワラケ、瀬戸焼(古瀬戸後期)、常滑焼、中国産の古銭や青磁も多数出土しています。
    約450年前の戦国時代には、やや深めの土坑と呼ばれる穴が多数検出され、内耳土鍋や瀬戸焼(大窯期)などの遺物も出土しています。
    約400年前の安土桃山時代から江戸時代初期にかけては、武士階級の屋敷跡が発掘されています。屋敷地を区画すると推定される堀は、郷土資料館や個人住宅建設に伴い発掘されました。この時期の堀にしてはやや浅い傾向がありますが、伝承旗本服部氏屋敷跡の発掘調査によって検出された堀もやや浅めである上、ほぼ同じ時代の遺物が出土していることから、旗本服部氏の家臣の屋敷地であった可能性が高いと推定されます。

    中寺遺跡

    中寺遺跡の写真

    中寺遺跡は、個人住宅建設に伴う事前の発掘調査として、平成10年度に実施されました。約450年~400年前の戦国時代の井戸跡が1基、多数の掘立柱建物跡が確認されました。井戸からは板碑や焙烙、内耳土鍋、掘立柱建物跡(上写真)の柱穴からは瀬戸美濃焼の天目茶碗や北宋銭(元祐通宝)が出土しています。柱は角柱が多く一辺13~16cmでした。中寺遺跡は、戦国時代岩付城にあった太田氏や後北条氏の家臣として古文書等にも記されている百間の武将鈴木雅楽助の子孫の屋敷地に近いことから、鈴木雅楽助の館の一部だと推定されます。

    伝承旗本服部氏陣屋跡

    伝承旗本服部氏陣屋跡の写真
    伝承旗本服部氏陣屋跡は、県道の拡幅に伴う事前の発掘調査として、平成12年度に財団法人埼玉県埋蔵文化財発掘調査事業団により実施されています。調査によって陣屋の南側を画すると推定される堀などが検出されています。
    服部氏は、安土桃山時代に徳川家康の命令により武蔵国太田庄3千石を封じられ、百間の地に陣屋を構えたのが始まりです。その後、江戸時代初期の元和5年(1619)、関所番として静岡県今切に配置替えとなり百間の地を離れました。このように江戸時代初期の段階で廃棄された関係から次第と人々から忘れ去られていましたが、発掘調査によって、幻の陣屋跡が改めて確認されることとなりました。また、この陣屋より古い遺物も出土しており、陣屋構築以前戦国武将の館跡があった可能性も考えられます。
    陣屋の縄張りは、この付近の明治時代の地籍図(地図)からある程度推定することができます。細長い区画は堀や土塁を表しますので、堀や土塁に囲まれた2つ曲輪からなる陣屋であったようです。

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    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

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    ファックス: 0480-32-5601

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