第06回 島村家の系譜(5)
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島村繁(2)
島村先生誨誘之碑
宮代町字中にある島村家と道路を挟んで向かい側にあたる場所に、大きな石碑が建っています。高さ三五三センチ、幅一五四センチを測る大きなこの石碑の上部には、篆書と呼ばれる書体で「島村先生誨誘之碑」と書かれています。「誨誘」とは、教え導くという意味であり、「教え導いてくれた島村先生」というような意味になります。島村先生とは誰のことでしょうか。
漢文調で書かれた碑の文章の始まりを見ると、「君諱雄隆島村氏通称繁至道軒其号也武蔵国南埼玉郡百間村人考諱貴英(下略)」とあります。書き下すと「君、諱は雄隆、島村氏、通称は繁、至道軒はその号なり。武蔵国南埼玉郡百間村の人。亡き父の諱は貴英(下略)」となります。つまり島村先生とは盛助の父・繁のことです。この一文からは、盛助の父は名が雄隆、通称は繁と呼ばれ、号は至道軒。武蔵国南埼玉郡百間村出身。また、繁の父(盛助の祖父)の名が貴英であったことがわかります。
続く文章には、繁が武士として身を立てるために武芸の修得に励んだこと、明治十六年に直新影流の免許皆伝を受けたこと、明治二十七年に屋敷内に遵養館という剣術道場を設けたこと、明治三十九年に村長となり、学校の改築や橋梁の修繕など教育や土木事業に力をいれたこと、明治四十三年の大水の時には、昼夜を問わず奔走し多くの人命を救ったことなど、繁の経歴や事績などが示されています。
明治四十四年十一月十三日、繁は四十七歳の若さで病にかかりこの世を去ります。葬送に訪れた人は、県知事をはじめ五千余人であったと碑には記されています。
碑文の終わりには、繁の功徳を伝えるために碑を建てたいという弟子たちの希望をうけ、嗣子の盛助が計画し、繁の友人であり本郷村(現杉戸町)の有名な漢学者であった大作暢が文章と文字を書いたという、碑の建設にかかわる経緯が簡単に述べられています。
碑の裏側には三百四十人を超える人名が記され、繁を慕った人の多さを物語っています。
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