すもうの歴史
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はじめに
栃錦、初若乃花、大鵬、柏戸、最近では貴乃花、武蔵丸などの力士の名前は一度は耳にしたことがあるかと思います。現在、相撲は年6場所国技館を中心に、名古屋、大阪、九州で行われており、テレビ等を通じて相撲の人気は高いものがあります。
こうした相撲は古代からの歴史がありますが、ことに江戸時代後半、寺社等への寄進を目的(名目)としたいわゆる「勧進相撲」と称される相撲が盛んになりました。こうした時代に描かれた、江戸文化を象徴する浮世絵の中に相撲に関するものもたくさんあります。
当時の花形力士、江戸の町中を歩く力士、取り組みの様子などさまざまなものがあり、これらを総称して「相撲絵」と呼ばれています。
今回は、そうした相撲絵を中心に展示しました。また、町内関根家に伝わる百間村の勧進相撲の古文書や、明治初期の勧進大相撲土俵入の絵も、当時の力士達を知るうえで貴重な資料でもあります。江戸時代から明治初期の錦絵を通じて当時の文化の一端に触れていただければ幸いです。
相撲とは
辞書を引くと「相撲」とは、「土俵内で二人が組合い、力を闘わせて、相手を倒すかもしくは土俵外に出すことによって勝負を争う技」とあります。
こうした相撲は、国技と称されるほど古くからある格闘技です。相撲の語源は明らかではありませんが、「素舞(すまい)」もしくは「相舞」の意味があると一般にいわれています。古は、古墳時代の土器や埴輪にも相撲の様子がかたどられいいます。日本書紀にも野見宿彌(のみのすくね)と当麻蹶速(とうまけはや)の対戦が記されており、相撲の起源とされています。
相撲のはじまり
公式に相撲が行われた記録としては皇極天皇元年(642)7月9日に来朝した百済の使者をもてなすために相撲を取らせたことが記録されています。また、聖武天皇の時代天平6年7月7日天皇が相撲を観覧したのが「相撲節会(すまいのせちえ)」の起源とされています。
中世の相撲
鎌倉時代には、武士のたしなみの一つとして奨励されました。室町時代には、職業とする人々も現れました。戦国時代の織田信長も大の相撲好きであったようです、天正6年(1578)に安土城内に1,500人もの力士を集めた大相撲を開いたそうです。
江戸時代の相撲
江戸時代には、職業的な力士集団が江戸、大阪、京都を中心に次第に組織化されていきました。元禄から享保期(1688~1736)ころに土俵が造られるようになり、多彩な技が披露されるようになりました。江戸時代後半には全盛期を迎えます。寛政3年(1791)将軍家斉による上覧相撲を契機として、幕府公認の娯楽として位置付けられ、各地で勧進相撲(元来は、社寺の修復、道路、橋梁の修繕等のための費用を募る目的であったが、次第に木戸銭を集めるための営業的な興行となった)が盛んになりました。町内でも百間村でも寛政7年(1795)に勧進相撲が開かれたことが古文書に記されています。
村人たちの数少ない娯楽の一つであったと思われます。
近代相撲から現在の相撲へ
明治以降、さらに近代化され日本の伝統文化として外国に紹介されるようになった。明治42年、天保4年11月場所以来、定場所として相撲が開らかれていた両国回向院の一角に常設の競技場が造られ、作家の江見水蔭によって「国技館」と名づけられ、以後相撲は国技と呼ばれるようになりました。
昭和3年から相撲のラジオ放送が始まり、また名横綱双葉山の出現により相撲人気も高まった。そして、戦後昭和25年に蔵前に国技館が設けられ、さらに昭和29年新国技館も完成し、ようやく戦後の混乱期を乗り切り安定した興行が行われるようになった。
その制度も昭和22年東西制を廃止して、一門系統別の総当り戦が行われるようになり、昭和27年には土俵の4本柱が取り払われた。以後、テレビによる実況中継等によって今日のような相撲の繁栄が築かれた。
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