03.室町・戦国時代の宮代町
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須賀郷の領主であった小山氏は、室町時代になると幕府に対し謀反(小山義政の乱)を起こしたことにより所領を没収され、代わって安保氏が須賀郷半分を支配しました。その安保氏も応永2年(1395)須賀郷半分の替地として下妻荘小嶋郷半分を与えられ、須賀を離れたようです。
一方、百間の地では戦国時代、岩付城の祈願寺として西光院がありました。岩付城主から出された古文書も3点残っています。戦国時代も終末になると岩付城主の北条氏房の家臣である鈴木雅楽助が百間を支配しました。武州文書には鈴木雅楽助あての文書が6点見られ、岩付北条氏の有力な家臣であったことがうかがわれます。
古文書・記録
足利氏満充行状
永徳2年(1382)安保憲光は、小山義政の乱の功績により小山氏領であった須賀郷半分を鎌倉公方足利氏満より与えられました。(横浜市立大学学術情報センター所蔵)
足利氏満充行状
北条家印判状写
太田源五郎印判状写
天正9年(1581)岩付城主となった北条氏政の子、太田源五郎は鈴木雅楽助に改めて軍役を課しました。(独立行政法人国立公文書館所蔵)
北条氏政印判状写
天正13年(1585)北条氏政は鈴木雅楽助に改めて軍役を課しました。(独立行政法人国立公文書館所蔵)
北条氏房印判状写
小山田信茂書状写
武田氏の家臣小山田信茂は、商人を関東に派遣するにあたり、岩付の柏崎か鈴木雅楽助かその他の者をうかがうよう求めました。(独立行政法人国立公文書館所蔵)
北条氏房印判状写
天正15年(1587)北条氏房は鈴木雅楽助を石倉の小奉行に申し付けました。(独立行政法人国立公文書館所蔵)
伊達房実判物写
天正18年(1590)北条氏房の家臣の伊達房実は鈴木雅楽助に岩付城に4月15日までに兵糧を運び込むよう求めました。豊臣秀吉の小田原攻めに対する臨戦体制の様子がうかがわれます。(独立行政法人国立公文書館所蔵)
太田資正判物写
太田資正から西光院あてに百間の6カ寺のうち廃寺となった3カ寺の土地を寄付するので岩付城の繁栄を祈念するよう命じられました。(西光院所蔵)

北条康成書状
永禄13年(1570)玉縄城主であり岩付城代であった北条康成は岩付当番衆が西光院の権利を侵した場合、その者を小田原へ報告し重く罰することを証しました。(西光院所蔵)
北条家印判状
天正18年(1590)、久米原郷の一部と和戸郷の一部が鷲宮神社(鷲宮町)の神領であったことが分かります。なお、久米原や和戸は岩付領に属していました。(鷲宮神社所蔵、写真:鷲宮町立郷土資料館提供)

北条氏房判物
天正14年(1586)北条氏政の子で太田源五郎の弟である北条氏房は西光院あてに百間6カ寺の所領の安堵を認めました。(西光院所蔵)
鈴木氏由緒書
百間郷の在地領主、鈴木日向守重門の戦いぶりや、鈴木家歴代について記されています。(鈴木正美氏所蔵)

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