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あしあと

    06発掘された縄文時代のむら1

    • [初版公開日:]
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    • ID:2535

    金原前遺跡と金原遺跡では、竪穴住居跡や竪穴状遺構、方形柱穴列など住居関連の遺構が25軒、貯蔵穴や土器を廃棄した穴などのが330基、屋外の調理場である炉穴が29基、乳幼児遺体や出産時に生じる胎盤を納めたと思われる単独の埋甕が3基発掘され、次第に縄文時代のムラの全貌が明らかとなってきた。

    ここでは、金原遺跡や金原前遺跡で発掘された特徴的な住居跡等を詳しく見ていきたいと思う。

    縄文時代早期後半(約7.000年前)の住居跡や炉穴等は島状に突き出した台地南側縁辺部のやや標高が高い場所で検出された。南側は字下の谷の低地(当時の海や沼)を望み、格好の漁場が広がっていたと推定される。ムラの北側には、おそらく木の実やイノシシやシカなどの動物などを狩ることができる森が広がっていたのであろう。

    縄文時代後期初頭(約3.500年前)には18軒もの住居跡があり、金原遺跡で最も人口が多く集落が大きかった時期といえる。台地西側の低地(当時の海や沼)を囲み込むうに弧状に住居跡が並んでいた。住居跡と低地(当時の海や沼)との間には貯蔵穴など生活に使われた遺構が発掘されている。また、住居跡のやや東側では掘立柱建物跡(方形柱穴列)が見つかっている。この建物跡は竪穴住居跡とは性格の違う建物であるといわれている。この周囲では多量の土器が出土していることもこの建物跡の性格を考える意味で重要であるといえよう。これより西側では遺構の数が非常に少なくなり、縄文時代後期初頭の土器もあまり出土しなくなる。これは、この地域に木の実の採集や動物を捕獲することができる森が広がっていたのかもしれない。

    金原前遺跡1号住居跡

    金原前遺跡1号住居跡の写真
    縄文時代後期堀之内期(約3,500年前)に属し、直径6mを計る大型で南側に出入り口を持つ住居跡である。柱跡は35本を数え、壁を巡ってほぼ同じ大きさの柱跡が並んでいた。中央部から2か所の炉跡(煮炊きをした所)が見つかっていることから建て替えを行っていたと推定される。古い炉跡を壊して土坑(貯蔵穴など)がつくられており、その中からほぼ完形の土器が発掘された。

    金原前遺跡2号住居跡

    縄文時代中期加曾利E式期(約4,000年前)の住居跡である。平面の形状はおそらく、柄鏡形を呈すると推定されるが調査範囲の関係で柄部のみを検出した。柱穴は3本を数える。多数の土器が出土している。

    金原前遺跡3号住居跡

    金原前遺跡3号住居跡の写真

    縄文時代後期称名寺期(約3,500年前)の住居跡で平面の形状は円形を呈する。柱穴は7本を数える。中央部にやや大型の炉跡が配置される。柱穴よりおそらく注口土器の蓋が出土している。陸田により掘り込み部はすでに削平されており、柱穴及び炉跡のみを検出した。

    金原前遺跡4号住居跡

    金原前遺跡4号住居跡の写真

    縄文時代中期加曾利E式期(約4,000年前)の住居跡である。調査範囲の関係や近代の溝により壊されていたため、住居跡の規模は不明であるが、おそらく、出入り口部が張り出した柄鏡型住居跡であると考えられる。出入口部に1基と出入口部と主体部が接するあたりに1基、埋甕が配置されていた。埋甕の中からさらに別の土器の底部が出土し、なにか特別なものを埋納していたような出土状態であった。

    金原前遺跡5号住居跡

    炉跡は検出されなかったが、柱穴が8本検出されたことや覆土が約10cm残っており、多数の称名寺式土器が出土したことからから縄文時代後期称名寺期(約3,500年前)の住居跡(竪穴状遺構)と推定される。

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