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あしあと

    第50回 「盛助」を語る(4)

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    「岩波英和辞典」の編さん作業にかかわった藤島昌平氏は、同級生や同窓生たちに比べて、「島村盛助」という人物のいろいろな側面を見ることのできた人でした。学校における「教師」としての盛助の姿だけでなく、翻訳や辞書編さん作業を通じて「英文学者」としての姿、あるいは俳句を読む「文人」としての姿など、実にさまざまです。

    「山形高等学校(以下、「山高」とします。)の開校から閉校までの間には、島村先生の右に出るような、そんな先生はいなかったねぇ。格が大きいというか・・・なんとなく押さえになるような、そんな方だったね。歴代の校長先生方も、頭が上らなかったというか、一目置いているという感じであった。学生のほうも、なんとなく怖いと感じていたね。別に叱られたりするわけでもないのだがね。授業が始まるということで先生が教室に入って来られると、教室全体がなんとなくピッと(緊張)していた。そういう先生は、ほかにはおられなかったね。」

    「教室では授業内容以外のおしゃべりはほとんどなかったね。授業中、イギリスでのお話を聞かせてもらおうと学生が話を振っても、それで授業時間が無くなってしまうほど饒舌にお話をされるということはなかった。ただ時々、先生のおじいさんにあたられる方やお父上に関することを話されることはあった。決して自慢話のような内容ではなかったがね。お父上は体格がよいかたであったという話が印象に残っているよ。」

    「ドイツ語の岡本先生とともに盛助先生のご自宅をお訪ねしたときのことだったと思うが、俳諧に関する話をしたことがあった。島村家にとっては、俳諧というのはお家芸のようなものであったと聞きました。句会のようなものが開かれるときは、皆、襟を正して島村家に来て、座敷に皆が通されると句会が始まる、と。幼い頃、盛助先生は句会に来たお客さんの膝に乗せてもらって、その句会の様子をずっと見ていたというようなお話であった。岡本先生は島村家からの帰り道に「島村君というのは、ああいう環境に育ったのであれば、俳諧というものが身に染みているんだねぇ。どうもおかしいと思っていたが、まさにそうなんだねぇ。」としきりに感服されていたことを覚えている。」

    「盛助先生は剣道もなさるが、碁をなさる、将棋もご存知だし、それから謡を一節謡われるのも聞いたことがある。それに、先生の端唄・小唄というのもねぇ実に巧妙なものでしたよ。まぁ、滅多に聞けなかったけれどもね。酒を飲んで適当に酔って、そういうときでないと聞かせていただけなかった。僕らはそういうものに縁がなかったから、唄えなかったけれどもね。学生の中には、遠慮会釈のない輩もいましたから、酒の席で先生にお願いをする者もいた。あるとき山高の同窓会の帰りの二次会で、卒業生たちから所望された先生の唄は実に巧みなものでしたが、先生は「真似事くらいはできるのだが」と謙遜されていましたよ。」

    「山高を依願退職されて百間に戻ったあとも、時々ご自宅をお訪ねしていた。失楽園の翻訳に取り掛かられた頃にも、偶然にお訪ねしたことがあった。その時に「藤島君、こういうえらい(大変な)ことを始めてしまったよ。」と手にされた原稿を見せていただいたことがあった。その後何度かお訪ねする際にはいつも、出来具合やここまで進んだみたいな話を聞かせていただいたよ。」

    藤島氏は、平成十九年に百三歳で亡くなられました。そのご年齢を考えると、お会いする事ができ、いろいろと貴重なお話をおうかがいできたことは、奇跡に近いものであったと思えます。心よりの感謝とご冥福をお祈りいたします。

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