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あしあと

    第49回 「盛助」を語る(3)

    • [初版公開日:]
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    これまでお話を紹介してきた藤島昌平氏は、盛助が中心となって編さんした「岩波英和辞典」(以下、「辞典」とします。)の編さん時のスタッフの一人でもあります。調査時点において、辞典の編さんについてお聞きできる方は藤島氏だけでした。
    藤島氏は京都大学を卒業後、三年ほど広島市内で教員をされていましたが、勤務していた学校が統廃合の結果廃校となりました。広島県内で新しい勤め先の斡旋はあったそうですが、かねてより知り合いのいない環境に寂しさを覚えていた藤島氏は、同じく新しい学校に勤めるのであれば、卒業した山形高等学校(以下、「山高」とします。)でお世話になった先生や先輩、後輩などがいる山形で勤めたいと考え、山高の先生方の協力を仰ぎ、山形市内の学校に勤務先を見つけました。
    辞典の編さん作業は、藤島氏が山形に来る二年ほど前から始まっていました。当時、盛助を中心に山高の英語科の教授たち何人かで作ろうとしていた辞典ではありましたが、なかなか思うように進んでいない状況でした。そんなところに教え子で英語の教諭でもあった藤島氏が山形に戻ってきたので、盛助や田中菊雄氏が「いい人材が戻って来た。」と喜んだそうです。

    「英語科には田中先生のほかにK先生やF先生といった二人の先生がおられた。この三人に手伝ってもらっていた。アルファベット順にAは誰が、Bは誰がのように役割を決めていって手分けしてやり始めたが、K先生やF先生があまり熱心にしてくれず、島村さんと田中さんが二人でやっていた。少々手一杯になりつつあったところに私が来たので、お二人にとっては大変助かった、という状況であったらしい。そんなわけで、私が最初に担当したのはPの項目で、それは辞典に載せるべき言葉の数が少なかったから。次にTを担当した。そしてもう一つ、確かHだったと思うが、全部で3つを担当させてもらったよ。そのあとは、特にどの項目ということではなく、校正を担当していったね。」
    「校正係は勉強になった。知らないことがいっぱいあり、それについて書かれた説明を読めるわけだからね。初めの内はいろいろなことが分からず苦労したが、慣れてきてからは効率があがった。原稿は島村さんが目を通した。そうすると、赤字がいっぱい書き込まれる。そうして原稿ができると、岩波書店に送った。ある程度たまったら、なんて言っていられない。岩波書店からは、少しずつでもいいから送ってくれといわれていた。送った原稿を元に、岩波書店では版をおこし、それを刷った校正ゲラがこちらに送られてきて、校正作業を始める、といった手順だった。校正ゲラはまず私のところに来る。それに赤をいれたものを田中さんのところに持っていく。田中さんが見る。このとき、付け加える必要があると小さな紙に書いて、印刷された見出しから矢印で指示をだして、校正原稿の上下左右の余白に貼り付けていく。岩波書店の方でも専門に校正を行う担当がいて、そこからの質問事項も書き込まれていたりするから、その内容を確認し、貼り付けた紙に回答を書き加えていく。校正原稿の紙面は、訂正や追記などで真っ赤になっていたから、紙を貼り付けて書かないと書きこみようがなかった。貼り付ける紙が左右の両側につくこともよくあった。それを岩波書店に送り返し、訂正されたゲラが来てというのを繰り返し、最後にかなりきれいになった段階で土井光知先生の元に送った。一方では新しい原稿を作りながら、もう一方では校正を行っていくという大変な作業だったが、今考えてみると、若かったからできたのだね。」

    辞典の編さん作業については、田中菊雄氏もその著書において述べています。(後日紹介します。)

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