13見沼代用水と笠原沼の開発
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8代将軍徳川吉宗の時代のなると米の増産政策の下に盛んに新田開発が行われるようになります。吉宗の紀州藩時代からの家来である井沢弥惣兵衛為永は、享保7年(1722)以降、笠原沼や見沼(浦和市)だけでなく飯沼(茨城県猿島郡)や手賀沼(千葉県印旛郡)などでも盛んに新田開発を行いました。この頃、新田開発が行える土地は、すでに田んぼとなっていたため、その用水源である溜沼以外開発する場所はない状態でした。しかし、溜沼を開発することは下流域の田んぼの用水源を確保しなければならないため、利根川から見沼代用水などを引き、溜沼下流域の村の用水源としたのです。このように用水と排水を分離し新田開発を行う手法を紀州流と呼びます。
笠原沼の開発でも笠原沼下流域の村の用水源として見沼代用水からつながる笠原沼代用水により百間村などの田んぼに水がもたらされました。このことにより、溜沼の機能を失った笠原沼を開発することができたのです
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