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あしあと

    10笠原沼新田検地帳・明細帳

    • [初版公開日:]
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    享保19年笠原沼中島村新田検地帳の写真

    享保19年笠原沼中島村新田検地帳

    検地帳は、土地の面積や収穫高、耕作者名などが記載されています。現在の土地台帳と同じで、この台帳を基に年貢の負担が決まりました。

    享保19年笠原沼久米原村新田検地帳の写真

    享保19年笠原沼久米原村新田検地帳

    享保19年(1734)笠原沼百間中島村新田や笠原沼久米原村新田で検地が行われ、笠原沼百間中島村新田で2町6反7畝が笠原沼久米原村新田で4町3反2畝が新たに田んぼとなりました。

    寛延2年笠原沼下野田村新田明細帳の写真

    寛延2年笠原沼下野田村新田明細帳

    明細帳は、村の状況などが記された帳面です。戸数や人数、寺や神社、村の面積、用水の有無などが記されていました。

    寛延2年笠原沼須賀村新田明細帳(表紙)の写真

    寛延2年笠原沼須賀村新田明細帳(表紙)

    寛延2年笠原沼須賀村新田明細帳(内部)の写真

    寛延2年笠原沼須賀村新田明細帳(内部)

    この明細帳には、笠原沼新田は前々から窪地であったため、堀上田にしたいとの願いがあり面積の半分を掘り上げたと記載されています。このため、用水は引きませんでした。

    天保10年笠原沼西原組新田明細帳の写真

    天保10年笠原沼西原組新田明細帳

    天保10年笠原沼中島村新田明細帳の写真

    天保10年笠原沼中島村新田明細帳

    享保16年笠原沼新田・古田境取極の写真

    享保16年笠原沼新田・古田境取極

    享保16年(1731)旗本池田氏知行の須賀村(現在の五丁付近)と笠原沼須賀村新田とが地境で争論となりました。五丁付近はもともと田んぼでしたが、大河内金兵衛により爪田谷落堀や道仏堰が造られたことにより荒地となり、元禄3年(1690)には秣場に、宝永5年(1708)頃、改めて田んぼとなりました。さらに、正徳3年(1713)頃、新井白石により野牛高岩落堀が掘られたため、葭原(あしはら)にするよう求めたことなどがあり、古い田んぼの範囲が分からない上に、沼であった笠原沼新田が開発されたため、地境で争いが起こったのです。普請奉行の葛葉平七により、絵図の通り地境が定められました。

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