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あしあと

    05笠原沼をめぐる水争い

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    埼玉県東部地区は、江戸時代初期(1610年頃)に関東郡代伊奈氏により関東流という手法で、上と下に土手を造り、その下流域である地域の新田開発をしました。
    笠原沼では1625年頃、大河内金兵衛久綱により、金兵衛堀(爪田ヶ谷落堀)が掘られ、上郷(爪田ヶ谷村・野田村などの騎西領)の排水を笠原沼へ落とし込んだことや姫宮落堀に恒常的な堰を造ったことにより、百間村の田んぼの用水源としました。その結果、上郷の村々と下郷の村々とで度々水争いが起こるようになります。
    それは、上郷では、不用な水を笠原沼に流し込みますが、下郷(百間村)では、その排水路に堰を設け水位を上げ用水として利用していたため、排水路が逆流し上郷の田んぼの水が溢れてしまったからです。
    古文書で確認できる最初の水争いは万治元年(1658)頃で姫宮落堀に設けられた2ヶ所の用水堰の件で百間村と近所の村が水争いをしたことが「ため沼絵図」から伺われます。その後、寛文12(1672)には百間村(下郷)と騎西領(上郷)とが、元禄6年(1693)には西原村・西村・東村・道仏村と久米原村・須賀村・爪田ヶ谷村との争いが起こりました。
    さらに、正徳3年(1713)・正徳5年(1715)には、野牛高岩落堀が掘られたことによる百間村と須賀村・蓮谷村との争い、享保7年(1722)には地先の開発にかかる旗本永井氏の須賀村と天領及び旗本池田氏の須賀村との争い、同年には道仏村・東村・西村・百間村と久米原村・爪田ヶ谷村との用水堰をめぐる争いや道仏村と蓮谷村との眞菰刈り取りの争いなど度重なる笠原沼をめぐる水争いが起こりました。こうした、水争いは水田を耕作する上で、いかに水の普請が重要であったかが伺われます。

    万治元年頃溜沼争論絵図の写真

    万治元年頃溜沼争論絵図

    この絵図は記載されている領主等や寛文の裁許状との関係から万治元年(1658)頃の百間村と近所の村との水争いに関係する絵図であると推定されます。笠原沼が「ため沼」と記載されていたり、上の土手、下の土手や姫宮堀に掛かる堰が2箇所描かれていることも興味深いといえます。おそらく、姫宮堀に掛かる2箇所の堰のことで笠原沼の水を用水として利用していた百間村を笠原沼周辺の須賀村や久米原村などが訴えたものと推定されます。

    開発前の笠原沼と周囲の用排水の画像

    開発前の笠原沼と周囲の用排水

    寛文12年騎西領と百間村堰論裁許状の写真

    寛文12年騎西領と百間村堰論裁許状

    寛文12年(1672)の騎西領と百間村の水争いの裁許状です。この古文書には15年前の万治元年(1658)頃の百間村と近所の村との水争いについても記されています。この時の関係する絵図が「溜沼争論絵図」です。寛文12年の水争いの裁判結果は、従来通り百間村は堰を設け用水を引くことが認められましたが、騎西領から落とされた水が滞ることのないようにとの注文もつきました。また、備前堀(姫宮落堀)についても同様であると記されています。

    元禄6年騎西領落堀堰論裁許状(裏面)の写真

    元禄6年騎西領落堀堰論裁許状(裏面)

    元禄6年騎西領落堀堰論裁許状(表面絵図)の写真

    元禄6年騎西領落堀堰論裁許状(表面絵図)

    元緑6年(1693)に百間領西原村・西村・東村・道仏村と久米原村・須賀村・爪田谷村との水争いの裁許状です。当時、笠原沼は騎西領落掘(金兵衛堀・爪田谷落掘)が流れ込んでおり、笠原沼下流域の村々の用水を引く溜め池の役割を担っていました。そのため沼をめぐり上流域の村と下流域の村とで度々争論が起こりました。今回の争論は西原村などが道仏橋下に堰を造ったため、笠原沼の水位が上がり久米原村などの田んぼに水が逆流し稲が収穫できなくなったため起りました。
    西原村をはじめとする下流域の村々は、昔から、笠原沼から流れ出る姫宮落堀の道仏橋下に堰を造り田んぼに用水を引いていたと訴えましたが、久米原村をはじめ上流域の村々は、騎西領落堀の末にも用水があるため、新たな堰は認められないと訴えました。幕府の裁判の結果、寛文の裁許状に記されている爪田谷村末に用水が無いことから、道仏橋下に堰を造り用水を引くことは当然であると認定しました。しかし、橋台については,寛文の裁許状で記してある通り、上流の村が満水であるときは堰を取り払い水を溜めないようにしなければならないため、これを取り除き、川幅の通り堰の長さを4間、沼口から堰の場所まで230間を深さ2尺で掘るようにと求められました。

    正徳3年笠原沼古落堀浚い願の写真

    正徳3年笠原沼古落堀浚い願

    新井白石により菖蒲新田が開発されたことにより野牛村悪水落堀(野牛高岩落堀)が笠原沼に流れ込みました。このため、笠原沼の水が増え周辺の村の田んぼが水没したことにより笠原沼古堀落の堀浚いをめぐる訴訟が起こされました。

    正徳5年真菰草植付願の写真

    正徳5年真菰草植付願

    笠原沼のまわりは、もともと田んぼでしたが、爪田谷落堀や道仏堰を造り、溜沼になった時に荒地となりました。その後、蒋(まこも)を植え、秣場(茅や芦を取る場所)に、そして、8年前に田んぼに開発されました。しかし、笠原沼は古くから下郷の用水として利用されてきたことや新井白石により野牛高岩落堀が開削され排水を笠原沼に流し込んだことにより、水が増水し、蒔田(摘田)だけでなく、植田まで稲が根腐れになってしまいました。このため、8年前に開発した田んぼを蒋(まこも)原に戻して欲しいと願い出ました

    享保7年笠原沼地先開発願の写真

    享保7年笠原沼地先開発願

    旗本永井氏の知行地である須賀村住民の地先である笠原沼の干上がった土地に天領や旗本池田氏の支配する須賀村の住民が稲を植え出したため、相手方の領主へ地先に入り稲を植えないように求めました。

    享保7年笠原沼地先出入訴状の写真

    享保7年笠原沼地先出入訴状

    この文書には元和5年(1619)に百間領5千石の検地が行われたことや寛永元年(1624)に蓮谷村が旗本の水野出雲守に須賀村が旗本の永井氏と池田氏に分けられたことや大河内金兵衛により爪田谷落堀が掘られ、沼下に恒常的な堰を造り百間村などの用水に引いていたことなどが記されています。このため、元々田んぼであった土地は荒地となり、年貢からも引かれていたようです。その後、この荒地を田んぼに開発したようです。

    享保7年用水溜沼論並沼内真菰刈敷出入裁許状の写真

    享保7年用水溜沼論並沼内真菰刈敷出入裁許状

    享保7年(1722)の道仏村・西村・東村・百間村と久米原村・爪田谷村との用水溜沼論と、道仏村と蓮谷村との眞菰の刈り取りの争いにかかる裁許状です。
    道仏村を始めとする村々の主張は、元禄の裁判の結果、道仏村の堰は幕府により認められましたが、34年以前の元禄3年(1690)に爪田谷・久米原の村民は勝手に笠原沼に眞菰などを植え出し、水が滞ったという理由で、道仏の堰を壊してしまいました。これにより、用水がなくなり困ったため、笠原沼へ植え出した眞菰や田んぼなどを取り除いてほしいと訴えました。
    爪田谷村などの主張は、道仏の堰を恒常的な堰としてしまうと沼の近隣の村だけでなく他の地区まで水害となってしまい、更に田んぼや眞菰を勝手に植え出したという道仏村などの主張は、34年以前に天領であった頃の検地帳にも流田と記載されていることからも矛盾すると述べました。
    道仏村と蓮谷村との眞菰の刈り取りの争いでは、蓮谷村の村民が笠原沼内に植えていた眞菰を道仏村の村民が刈ってしまったため起ったようです。
    幕府の裁判の結果、検地帳に記載されていないすべての田んぼや眞菰などを取り潰し、用水が滞ることがないようにし、今後、笠原沼へ田畑は勿論、葭や眞菰も絶対植えてはいけないと決められました。

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