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あしあと

    05 まとめ

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    • ID:2393

    今まで、考古学、歴史地理学、文献史学により旗本服部氏を解明してきたが、その結果、15世紀後半から16世紀前半の時期は百間郷の在地領主の居館があった可能性が指摘でき、16世紀第4四半期から17世紀第1四半期にかけては、伝承で残る旗本服部氏の陣屋に関係があると推定される。

    ふれ愛センター宮代や宮代町郷土資料館建設に伴い発掘調査が行われた地蔵院遺跡も伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡と同じ傾向が指摘されていることから、字西原地区一体は中世百間郷の中心地であり、郷内の中核的な集落や城館であったと考えられる。
    本遺跡で確認された15世紀後半から16世紀代の堀や井戸、竪穴状遺構、土坑などから出土した遺物は中世城郭にしては非常に多い状態であった。これらのことからも本城館が一時的に構築された砦的な城郭ではなく、百間郷の領主が住した居館的な城郭であったと推定される。
    西側に土塁を伴うことや堀幅が5メートルを超えることからも、百間郷領主の中核的な城郭であったと推定される。宿・源太山遺跡や地蔵院遺跡の中世遺構や遺物も本城郭と関係が深いものと推定される。このような地域の状況から旗本服部氏は百間郷の領主の城郭やその周囲の集落を利用し陣屋や城下集落・宿(城下町)を構築したと推定される。

    江戸時代の旗本は陣屋を構え在地支配を行っていた。旗本服部氏は徳川家康から太田庄の内百間郷を与えられ、その領地を支配する上で郷内に陣屋を構築する必要性があった。戦国期から百間郷の中心的集落であり在地領主の居館のあった西原地区は旗本服部氏の陣屋を造る上で重要な場所であったと推定される。このような背景で、16世紀末葉、中世百間郷の領主の城館を改築し、旗本服部氏が百間陣屋を構えたと推定される。

    平成12年度第7号溝を埋め立て敷地を拡大していること、柱穴を人為的に埋めロームブロックで固めていることなど大掛かりな普請が広範囲に確認されている。これは、大規模な城館普請を想定でき、その主体は百間郷の在地領主とは考えにくいことから、旗本服部氏の存在が重要であったと推定できる。

    青林寺付近からその東側の百間村(百間本村)(赤色部分)の飛地部分を中心に旗本服部氏の陣屋があり、その東側にあたる地蔵院遺跡は服部氏家臣の屋敷地があった可能性も考えられる。さらに、地蔵院前と青林寺前にクランクがあることは、城下町や宿場で確認できるクランクの形態であることからも西原地区が旗本服部氏の陣屋と密接な関係があることを伺わせる。

    小字西原色分け村別分布図

    発掘調査で最も多くの遺物が出土した時代は、旗本服部氏の百間郷支配が確認できる期間であった。また、出土遺物の中には、武士階級が使用した刀の縁、鏡もあり、本遺跡が旗本服部氏の陣屋であることはほぼ間違いないといえるだろう。
    遺物の編年から見ると第2のピークである16世紀最末から17世紀第1四半期まで最も多く出土する傾向が見られる。その後、17世紀第2四半期で減少し、17世紀第3四半期で第3のピークが認められ、17世紀第4四半期で激減する。服部氏が百間郷を領していたのは17世紀第1四半期までであり、それ以降については青林寺過去帳に見られる天領代官曽根与五左衛門の代官陣屋があった可能性もある。その後、宝永4年(1707)の富士山噴火以前に破城されたものと推定される。

    中近世遺物年代別グラフ(2000年度~2002年度)
    本遺跡の北側の宿地区は、江戸時代前期「後宿」と呼ばれていた。百間村では主体的なものの北側を「後」と呼んでいる。「後宿」の存在からも主体的な西原地区あった旗本服部氏の陣屋を想定できるといえるだろう。

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