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宮代の歴史をかけ足で紹介

[2016年11月18日]

ID:1703

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地理的環境

宮代町航空写真

宮代町は、関東平野のほぼ中央部にあり、埼玉県の東部に位置する。東経139度43分37秒、北緯36度1分10秒を測る。東西約2km、南北約8kmで、北西から南東に良い形をした町である。東部は北葛飾郡杉戸町、南部は春日部市、西部は南埼玉郡白岡町、北部は久喜市にそれぞれ接している。

地形的には、大宮台地東側周辺部にあたり、慈恩寺台地に基部をおき、北西から南東へ大きく張り出した台地と、その周囲の低地(浸食谷)からなっている。

また、東側には古利根川が流れ、その沿岸には自然堤防の発達が認められる。町域の殆どは都心から40km圏内にあり、東武鉄道が町を縦断しており、東武動物公園駅、姫宮駅、和戸駅の三駅を中心として市街地が形成されている。

人口及び世帯数

当町は、純農村地帯として近年まで大きな人口変動は見られなかったが、最近都市化の波によって急激な変化をきたしている。昭和30年、須賀村、百間村の合併当時の人口は10,755人、戸数1,856戸であった。昭和40年には、人口13,025人、戸数2,737戸と徐々に増加し、昭和50年には宮代台団地、学園台団地等の大規模な団地が造成された事もあって、人口21,725人、戸数5,559戸となった。

さらに、昭和52~53年頃に姫宮北団地、同南団地等の造成などによって、昭和59年4月には、人口30,385人、戸数8,482戸となった。平成17年4月1日現在、人口は34,324人にのぼり、昭和30年の合併時より3倍ほどの伸びを示している。

原始・古代 一宮代のあけぼの一

前原遺跡出土の石器と土器

宮代町は、大宮台地東部に位置し、周囲は低く平坦な台地が広がっており、一部埋没台地が認められ、それらの台地上を舞台として人々のくらしが展開された。当町に初めて住民が移り住んだのは、昭和55年に行われた前原遺跡の調査によって、約14,000年前である事が明らかにされている。すなわち、氷河期にあたる先土器時代後半の事である。赤土の中から、当時の人々が使用した石器が多数出土した。人々が土器づくりを始めた縄文時代の遺跡は、町内で最も多く、30数か所その所在が確認されている。ことに、前原遺跡では県内最古の縄文時代の集落(むら)が発掘され、7軒の住居跡が検出された。

このほか、縄文時代全般を通じて人々の足跡を認める事ができる。ことに、地蔵院遺跡、山崎山遺跡等では縄文時代早期(約7,000年前)や後期(約3,500年前)の住居跡が発掘され、集落の存在が確認されている。

また、縄文時代後期の貝塚としては西光院貝塚が知られており、オキシジミを主体とした小規模な貝塚がある。弥生時代の遺跡は、現在のところ当町では確認されていないが、付近の市町でその所在が明らかにされており、当町でもおそらく存在する事はまちがいないものと考えられる。古墳時代の遺跡は、数か所確認されており、ことに山崎山遺跡では県内最古の4世紀後の鍛冶工房跡が発掘されている。

また、山崎遭跡では本格的なカマドを持った6世紀後半の住居跡が発掘された。一方、姫宮神社境内には7世紀前半の頃と推定される古墳がある。平安時代には、この付近一帯は大田郷と称され、その末期には八条院領となり太田庄と呼ばれた。この時期の遺跡は、数ケ所で確認されている。なお、西光院にある国の重要文化財である阿弥陀三尊像は、平安時代末期安元2年(1176)の銘がある。

中世~鎌倉街道ぞいの村

阿弥陀三尊像

鎌倉へ至る街道として、県内には概ね5つの道筋があった事が知られている。そのうちの1つ、奥州道(中つ道)と称される街道が久米原、須賀を通り、古利根川を渡り、高野、幸手、古河方面へと通っていた。平安時代末には、すでに渡しがあり、さらに鎌倉時代元亨4年(1324)北条高時、金沢貞顕の発した文書から当時すでに橋が架かっていたことがわかる。

また、室町時代の市場祭文には、須賀、久米原に市が立ったことが記されている。一方、百間については宝生院にある応永21年(1414)銘の鰐口に「武州太田庄南方百間姫宮鰐口一口」とあり、やはり古くから開けた土地である事がわかる。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、岩槻城の北条氏政、太田氏房に仕えた百間東の土豪に鈴木雅楽助がいる。また、西光院には岩槻太田氏関係の書状が今日に残されている。一方、天正19年(1591)徳川家康は関東入国に伴い、西光院あて寺領50石を寄進している。

近世~新田開発による村の増加

江戸時代当地域は、その大部分は旗本領であった、その初期(寛永・正保の頃)は、百間村、須賀村、蓮谷村、・久米原村、和戸村、国納村の6か村、石高4,800石余りであった。ところが、元禄8年(1695)百間村が中・中島・東そして百間の4村に分かれた。久米原村も、延享3年(1746)一橋家領が、宝暦13年(1763)佐倉藩領がそれぞれ置かれ支配地によって西粂原、東粂原の2村に分かれた。

その後さらに、新田開発によって幕末には26か村に達した。石高も幕末天保年間には、5,357石と元禄年中より553石の増加をみている。なお、笠原沼の開発は、享保13年(1728)井沢弥惣兵衛によって行われ、250石余りの新田が開かれた。

交通路としては、日光御成道が西粂原、国納、和戸の各村を南北に通り、幸手へと通じていた。この街道は、将軍が日光社参のおり通行したもので、元和5年(1619)将軍秀忠が通ったのを始めとして、以降代参も含めて歴代の将軍が通行した。

近現代~明治維新そして宮代町ヘ

江戸も東京と改まり、明治へと時代も変わった。支配も、旗本領から廃藩置県によって武蔵知県事から大宮県、浦和県へさらに明治4年埼玉県へと移り変わって今日におよんでいる。新田も含めて26か村にも分かれていた村々も、明治7年には旧須賀地区が5か村(国納、須賀、和戸、西粂原、東粂原)、旧百間地区が7か村(百間東、百間中、百間金谷原、百間西原、百間、蓮谷、百間中島)にそれぞれ統合された。さらに、明治22年には町村制施行により7か村を統合して百間村に、5か村を統合して須賀村とした。

昭和30年7月20日、百間村、須賀村が合併し町制が施行され、宮代町が成立し今日に至っている。一方、明治6年に学制が施行され、百間に進修学校、東粂原に西條学校が設立され、明治7年和戸学校、明治9年には道仏に中島学校がそれぞれ開設された。交通関係としては、明治32年東武伊勢崎線北千住~久喜間が開業したのに伴い、杉戸駅、和戸駅が開業した。昭和2年姫宮駅が開業、昭和4年には杉戸駅から東武日光線が分岐した。杉戸駅は、昭和57年東武動物公園の開園に伴い、東武動物公園駅と改称された。

宮代町の地名

宮代町は、昭和30年須賀村、百間村が合併してできた町である。その町名は、百間村の総鎮守姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」をそれぞれとって現町名の一部とし出来たものである。ところで、旧村名である百間の地名の最古の記録は姫宮神社々前に掛けてあったという鰐口の銘であり、応永21年(1414)と記されており、古い地名である事は明らかである。

一方、須賀は鎌倉時代の寛喜2年(1230)小山朝政の文書に出てくるのが最古であり、古い地名である事がわかる。また字名は旧須賀地区については明治22年合併前の旧村名を大字とし、旧百間村についても当初同じく旧村名を大字としたが、昭和5年大字を廃し新たに10字(あざ)に変更し今日に至っている。

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