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あしあと

    03笠原沼成立の年代

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    笠原沼造成の年代

    笠原沼の造成については、大河内金兵衛との関係や宮代町に残る古文書からある程度推定ができる。ここでは1つ1つの要素から笠原沼造成の時代を探りたい。
    笠原沼造成の主体者は大河内金兵衛であったことが、享保7年(1722)と推定される「地先出入訴状」で確認できる。大河内金兵衛は「地方の奉行」であったと『寛政重修諸家譜』にも記載され、「地方の奉行」であったのは寛永15年(1638)までとある。このことから笠原沼造成は寛永15年以前であるといえる。
    次に、元和5年(1619)に百間領5000石の検地が行われ、百間村・須賀村などで検地が行われたことが史料からも明らかである。須賀村には元和5年の須賀村検地帳写が現在まで伝わっている。
    「溜沼争論絵図」(下の写真)によると、笠原沼北縁の字五丁から東側付近の田場に水がかぶっていることが確認できるため、元和5年(1619)の検地で田場として把握されていた土地が、笠原沼の造成により荒地となったと推察できる。
    寛永13年(1636)の須賀村年貢割付状(旗本永井氏)に「下田1町8反1畝歩毎年荒ニ付」という記載がある。その後の慶安元年(1648)の須賀村年貢割付状(旗本永井氏)には「壱町九反八畝廿七歩毎年どぶニ引き」とあることから寛永13年(1636)に確認できる荒地が慶安元年には若干増えていることが確認できる。
    正徳5年(1715)の「笠原沼蒋草植付願」では「笠原沼之内 殿様御知行所下田壱町九反八畝弐拾七歩有之候、彼沼古より下郷用水溜沼ニ御座候故永荒地ニ罷成候、然処ニ廿七八年以来(元禄2年)蒋植置面々馬草刈取申候所ニ、八年以前(宝永5年)開発被為 仰付」とあり、享保7年(1722)と推定される「地先出入訴状」にも「右永荒地何とそ開発仕候様ニと御地頭(旗本永井氏)より被仰付、別高開発仕候処ニ御帳面ニ壱町九反八畝廿七歩御座候處ニ漸壱町壱反余立帰リ之分御座候、年々相応之御年貢指上ケ来候」とある。この開発は宝永5年(1708)と推定される。なお、元禄2年(1689)にもカヤバや流田として開発したことも確認できる。また、享保16年(1731)の新田古田の境争いに係わる絵図や領主の土地の状況(西側五丁付近が旗本永井氏、その東側堀上田がみられる所が旗本池田氏)などから、これら永荒地の場所は「溜め沼絵図」にみられる字五丁付近から東側であることがわかる。
    これらのことから、元和5年(1619)から寛永13年(1636)までの間に、笠原沼が造成したものと推定される。

    溜沼争論絵図の写真

    溜沼争論絵図

    溜沼争論絵図部分の写真

    溜沼争論絵図部分(笠原沼北側の田んぼに水がかぶっているのがわかる)

    慶応2年須賀村年貢割付状について

    平成14年12月14日、宮代町大字須賀の渡辺氏宅の土蔵から多量の江戸時代末期から明治期の古文書が発見された。渡辺氏は須賀村の領主であった旗本池田氏の組頭や年番名主を勤めていたことが他の古文書群により明らかであった。古文書群は所在番号を付け見取り図や写真、ビデオで記録を取りながら丁重に取り上げ作業を行った。
    その中から、慶応2年(1866)の年貢割付状が発見された。これによると堀敷引きとして享保13年(1728)・14年(1729)の笠原沼の開発に伴う用悪水堀の引き分と共に寛永2年(1625)の堀敷分の記載があった。須賀村は先に述べたとおり元和5年(1619)に検地が行われている。元和5年以降に用水または悪水敷として寛永2年(1625)に開削が行われたことは明らかである。その場所については本割付状からは不明であるが、万治2年頃(1659)と推定される「溜沼争論絵図」によれば上の土手付近から派生する用水や元禄6年(1693)の「騎西領落堀堰論裁許状絵図」の備前堀の堰からの引かれる用水と関係があると推定される。どちらとも、流路は現在の中須用水(笠原北側用水)の一部であるがことがわかる。備前堀とはその名称からも伊奈備前守の開削だと伝わる。少なくとも、備前堀からの用水は寛永2年に開削されたことは明らかであろう。なお、備前堀の堰については寛文12年(1672)の裁許状でも確認できる。備前堀からの用水は粂原村・須賀村・蓮谷村の古田を灌漑し、笠原沼下手の姫宮堀の道仏堰でさらに取水し、姫宮堀北側の道仏村(後の百間中島村)や百間村(後の百間東村)の内柚木・松ノ木島(現在の字宮東)の古田を灌漑していた。
    ここで重要なのは道仏堰(溜沼争論絵図では2箇所確認できる)の存在であろう。道仏堰は享保7年(1722)と推定される「地先出入訴状」において、大河内金兵衛の笠原沼造成に伴い構築したと記されている。これらのことからも、備前堀からの用水の開削と道仏堰の構築、笠原沼の造成(金兵衛堀=爪田谷堀の開削と笠原沼への流し込み)は密接な関係といえる。当然、笠原沼の造成は下郷の用水供給と田地の開発のためである。
    これをもって、笠原沼の造成が寛永2年(1625)であると断定することはできないが何らかの関係があることは推定できるといえるだろう。

    騎西領落堀堰論裁許状絵図の写真

    騎西領落堀堰論裁許状絵図

    まとめと今後の課題

    今回、笠原沼の造成が推定できる元和5年(1619)から寛永13年(1636)の間で古文書に残る記年名が初めて確認できた。しかし、これをもって笠原沼の造成が寛永2年(1625)だと断定することは出来ない。しかし、備前堀からの用水の開削、道仏堰の構築、爪田谷堀の開削と笠原沼の造成は非常に密接に関係するものであるといえる。現段階としては、寛永2年に備前堀からの用水が伊奈備前守あるいは大河内金兵衛により開削され、須賀村の土地の一部が堀敷となったということである。この用水が大河内氏ではなく伊奈氏により開削されたとしても、備前堀の堰のみでは道仏村や柚木・松ノ木島の田地を灌漑するには水量が足りないため、大河内金兵衛は笠原沼を造成し下手の道仏堰を造り加水したといえる。ゆえに、笠原沼の造成は寛永2年(1625)から寛永13年(1636)までと推定するのが妥当であるといえる。今後の新出資料が待ち望まれる。
    大河内金兵衛は関東郡代の伊奈氏と重複するところが多いが、爪田谷堀が金兵衛堀と称されることや備前前堀も金兵衛堀と記載されていることなど、地元では落堀の名称などとして僅かながら存続している。一方、伊奈備前守についても町内に備前堀が存在する。堀の開削と堰の構築などで大河内金兵衛と伊奈備前守はオーバーラップするところがあるが工事の意味合いや年代等、後に関東郡代と称された伊奈氏との役割分担を考え、今後詳細に検討する必要があると考えられる。
    大河内金兵衛は周知のとおり「知恵伊豆」こと幕府老中を勤めた松平信綱の父にあたる人である。忍城・宇都宮城の城代や妻沼や鉢形、騎西に陣屋を設けていたこと、羽生領や忍領の代官を勤めていたことなどが、伝承や資料などから確認できる。年代から見ると伊奈氏と同時期の地方の奉行として大河内氏が存在しており、県東部においてもその重要性は計り知れない。
    慶応2年(1866)の旗本池田氏の須賀村年貢割付状には享保13年(1728)~16年(1731)に堀付田堀敷が確認できる。これらのことから、須賀村古田(旗本池田氏)の一部が堀上田になったことが推定され、笠原沼新田の堀上田についても、享保13年(1728)・14年(1729)の笠原沼の開発と同時期から享保15年(1730)・16年(1731)までに堀上田のクリーク(地元ではホッツケと呼ぶ)が構築されたと推定される。なお、笠原沼須賀村新田明細帳には「當村新田 右ハ前々より窪地ニ御座候ニ付掘上ケ田ニ御願申上候而五分通リ之掘上ケ田ニ被仰付」とあり、笠原沼の開発(爪田谷堀と野牛高岩落堀と下手の姫宮堀と繋げる笠原付廻堀の開削で排水を古利根川に流す普請と、利根川から見沼代用水をへて笠原沼代用水を開削し笠原沼の下手の村への用水の確保のための用水普請)ののち村民の「御願」により堀上田となったことがわかる。
    ちなみに本文書が発見される以前は元文3年(1738)の史料で笠原沼須賀村新田の堀上田堀敷引が確認されていた。なお、堀上田については井沢弥惣兵衛による紀州流の典型であるとの指摘があったが、最近はそれ以前から堀上田が行われていることが明らかとなっている。須賀村においても字五丁付近の宝永5年(1708)の開発の際、堀敷であったところが、笠原沼開発後の享保16年に田地に戻っていることが史料から確認できる。これらの堀付田堀敷が今日みられるホッツケと同様であったかどうかについては不明であるが、享保期以前の開発において堀上田が確認できることは特筆できるものと考えられる。

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