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あしあと

    11 江戸時代の宮代町にあった村

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    江戸時代の村の移変り

    表

    江戸時代の村と名主

    江戸時代の宮代町は、おおむね現在の大字ごとに村が存在し、大名や旗本などに支配されていました。また、東粂原村や須賀村などのように1つの村が複数の領主によって支配されていた村もありました。そして、各領主や組ごとに村方三役(名主・組頭・百姓代)と呼ばれる組織があり、名主は特に重要な役職で現在の村長に当たります。名主宅は村にとっての公文書を扱う村役場の役割を担っていました。
    名主は同じ家が江戸時代を通して努めていた場合もありますが、宮代町では幕末に名主が変わっている場合が多いようです。また、江戸時代の中期以降、組頭などが年ごとに名主を受ける年番名主も出現します。

    百間村とは?

    百間村は室町時代以来の村の名称であったようで、戦国時代には岩付(岩槻)太田氏や小田原北条氏の支配下にありました。徳川家康の江戸入府後、文禄年中(安土桃山時代)から旗本の服部政光・政信父子が西原地区に屋形を構え、百間三千石を支配していたようです。その後、1000石が旗本朽木氏のち天領(私的に後宿村、西原村,金谷原村、平島村と唱えました)、1000石が旗本永井氏(私的に戸崎村もしくは寺村と唱えました)、1000石が旗本池田氏(私的に中村、道仏村と唱えました)とに分割されました。このように元々一つの村であった百間村は支配者などの関係により細分化し支配されていましたが、元緑8年(1695)正式に旗本池田氏の領地が百間西村(中村)と百間中島村に旗本永井氏の領地が百間東村に、天領が新しい百間村に分割されます。この新しい百間村で実施した検地の際作られたものが百間村検地帳です。検地の後、百間村の一部(のちの百間西原組・百間金谷原組)は、岩槻藩小笠原氏領となります。元緑16年(1703)には、残りの天領(のちの百間本村)が久喜藩米津氏領となります。正徳元年(1711)には、岩槻藩領は天領に戻り、さらに享保10年(1725)頃には旗本森川氏と旗本松波氏とに分割され支配されます。一方、久喜藩米津氏領は、宝暦13年(1763)に佐倉藩堀田氏領に支配が変わりました。
    このように元緑8年に誕生した新しい百間村は度重なる分割により佐倉藩堀田氏領が百間村(本村)に、旗本森川氏の領地が百間西原組に、旗本松波氏の領地が百間金谷原組に事実上分けられていました。さらに支配の関係から百間西原組は上組・下組に、百間金谷原組内にも平島組が設けられました。一方、江戸時代中期以降開発された逆井新田や下ノ谷新田、笠原沼新田、百間四ヶ村請新田、古利根川の流作場を開発した江戸本所大壽院請の午高入新田などの新田は天領に属しました。明治初年には百間村(本村)と百間西原組、百間金谷原組は正式に分村します。
    このように百間村は元緑の分村前の百間村、本村・西原組・金谷原組を合せた百間村、本村のみの百間村と3段階の変遷をへています。明治22年には、百間6か村と蓮谷村が合併し百間村となりました。以来、昭和30年宮代町の成立まで続き、現在は字名として残っています。

    久米原村とは

    久米原村の初見は室町時代の市場の所在地を著した「市場之祭文」です。また、戦国時代末の天正18年(1590)に出された小田原北条氏印判状にも久米原の地名が記されています。その後、江戸時代初期には岩槻藩領と旗本水野氏の領地とに分けられました。旗本水野氏の領地はのち天領となり、さらに元緑16年(1703)に久喜藩米津氏領(のち佐倉藩堀田氏領)と旗本渥美氏の領地、旗本細井氏の領地に分割されます。
    一方、岩槻藩領はのち天領となり、延享3年(1746)には徳川吉宗の子宗尹が興した御三卿の一つ一橋徳川家に支配されます。この時、一橋領を西粂原村と唱えたことにより、それ以外を東粂原村と呼ぶようになったと伝えられています。一方、享保13年(1728)に開発された笠原沼久米原村新田は当初から天領に属しました。
    明治初頭に正式に東粂原村と西粂原村とは分村します。明治22年、須賀村や和戸村、国納村、西粂原村と合併し須賀村となり、さらに、昭和30年には百間村と合併し宮代町となった後も、その大字として現在も伝わっています。

    須賀村とは

    須賀村は、鎌倉街道中道が通っており、街道沿いの集落が早くから形成されていたようです。鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」によると建仁4年(1204)に武州洲河(須賀)の地頭が盗賊を捕らえ恩賞を受けたと記されています。寛喜2年(1230)には下野国(栃木県)の小山氏の支配下にあったことが文献からも明らかとなっています。その後、康暦元年(1379)に起こった小山義政の乱の勲功として安保憲光に須賀郷の半分が与えられました。室町時代の「市場之祭文」にも久米原とともに市がたっていたことが記されています。
    江戸時代の須賀村は当初天領でしたが、のち岩槻藩領と旗本永井氏・旗本池田氏の領地に分割されました。また、旗本永井氏、旗本池田氏支配下の須賀村は私的に須賀本村と須賀新田村とに分かれていました。その後、岩槻藩領は天領とり、元文元年(1736)には、旗本小笠原氏の支配下となります。一方、享保13年(1728)に開発された笠原沼須賀村新田は当初天領でしたが、明和7年(1770)川越藩松平氏領となり、文政4年(1821)に改めて天領となりました。
    明治22年、須賀村は東粂原村や和戸村、国納村、西粂原村と合併し須賀村となり、さらに昭和30年には百間村と合併し宮代町となった後も、その大字として現在も伝わっています。

    蓮谷村とは

    蓮谷村は、村高約100石余りの小さな村で慶安年中(1648~1652)には旗本水野氏の領地であったことが確認されています。その後、天領となり元緑16年(1703)には、久喜藩米津氏領となりました。さらに、宝暦13年(1763)には、佐倉藩堀田氏領となり明治維新を迎えます。一方、享保9年(1724)に開発された逆井蓮谷村新田や享保13年(1728)に開発された笠原沼蓮谷村新田は終始天領に属しました。
    蓮谷村は明治7年に逆井・笠原沼両蓮谷村新田を合併し、明治22年百間村や百間東村・百間中村・百間中島村・百間西原組・百間金谷原組と合併し百間村となりました。昭和5年まで百間村の大字として存在した蓮谷は大字小字を廃止し、新たに字が設置された事により地名から消えてしまいました。現在の本田3丁目や笠原、字百間あたりにあたります。

    和戸村とは

    和戸の初見は天正18年(1590)の小田原北条氏印判状で鷲宮町の鷲宮神社社領であったことが確認されています。江戸時代の入ると国納村に属し、その後分村したと伝えられています。慶安年中(1648~1652)には旗本水野氏の領地で、のち天領となりました。元禄10年(1697)頃、旗本榊原氏と旗本山本氏に分割され明治維新を迎えます。村高580石余りの中規模の村で、江戸時代中頃に開発された和戸村新田は終始天領に属しました。
    和戸村は明治22年須賀村・東粂原村・西粂原村・国納村と合併し須賀村となり、さらに昭和30年には百間村と合併し宮代町となった後も、その大字として現在も伝わっています。

    国納村とは

    国納村は村高180石ほどの小さな村で、もともとは和戸村を含めた範囲の村でした。慶安年中(1648~1652)には天領でしたが、元禄10年(1697)に旗本森川氏・旗本戸田氏・旗本高木氏に分割され明治維新を迎えます。国納村と和戸村は元々一村であったため非常に入り組んでおり、北の八河内と南の沼端は和戸村を挟み離れて存在します。
    国納村は明治22年須賀村・東粂原村・西粂原村・和戸村と合併し須賀村となり、さらに昭和30年には百間村と合併し宮代町となった後も、その大字として現在も伝わっています。

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    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

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