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あしあと

    03 和戸・国納村の相給、宮代町相給の特徴

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    • ID:2488

    和戸村・国納村相給の年表

    天正18年(1590)後北条氏の支配下として、岩付領和戸村が鷲宮社領として確認できる。
    天正18年(1590)徳川家康、江戸へ入府。このとき、後の和戸村・国納村は天領になったと推定される。
    江戸時代初期 和戸村と国納村、分村したと推定される。
    元和5年(1619)百間領5,000石(国納村・和戸村も含む)検地。
    寛永元年(1624)和戸村、旗本水野氏の支配となる。国納村は天領のまま。
    寛文4年(1664)旗本水野十郎左衛門改易。和戸村、天領となる。
    元禄3年(1697)和戸村検地。
    元禄10年(1697)国納村検地。
    元禄10年(1697)国納村、旗本森川氏・旗本戸田氏・旗本高木氏の相給となる。和戸村、旗本山本氏・旗本榊原氏の相給となる。

    和戸村・国納村の相給

    国納村と和戸村については、「和戸村国納村古来一村ニ御座候而田地入合申候」(鈴木家文書)とある通り、元々、一村であったものが、その後分村したことがわかる。村の分布状況としては、和戸村の中に国納村がある状況で、南の字沼端と北の字八河内にある程度纏まりがあって存在する。これは集落との関係と考えられ、2字に人家が集中し、そこに住む百姓が地先を開発した結果、周囲に飛地がある状況になったと推定される。
    国納村と和戸村の分村については、その分布状態が百間村に類似すること(国納村の分布状態が中心集落からその隣接部)から、元和5年(1619)の検地の後、寛永元年に和戸村が旗本水野氏に与えられたことと関係があるのかもしれない。

    第11図 和戸村の画像

    第11図 和戸村

    第12図 国納村の画像

    第12図 国納村

    分布状態に見る相給の年代

    1. 面的に接するタイプ
       西粂原村と東粂原村
    2. 中心集落タイプ
       百間村の相給、和戸村と国納村
    3. 混在するタイプ
       東粂原村内の相給

    上記のように3タイプの相給村に分けることができる。これらは、単なる領主の支配エリアの違いと考えるより、相給となった年代的な差と考えることができると思われる。
    面的に分けられる東粂原村と西粂原村は少なくとも、和戸村や国納村が分村した時期や百間村が相給となった時期よりも古い時代に分けられたと推定され、西粂原村に岩槻藩主高力氏が入ったことと関係があると推定される。
    和戸村・国納村が分村した時期は明らかではないが、分布状態から推察すると、百間村が相給となった寛永元年付近と考えることもできるのではなかろうか。和戸村はこの年、天領から旗本水野氏知行地となっている。
    混在するタイプは最も新しいもので元禄の地方直しによる相給である。

    これらのことから、元和5年の検地以前の相給(西粂原村と東粂原は村)は一円的な広域支配権が確認でき、寛永の地方直しによる相給(百間村や国納村と和戸村)は集落を中心にその縁部に飛地がある状態であり、元禄の地方直しによる相給(東粂原村)は村内を便宜的に按分し、集落内は錯綜した状況で、それぞれの土地を単位に村政が行われたことがわかる。元禄の地方直しで相給となった国納村内や和戸村内もこれとほぼ同様であったと推定される。元禄10年に相給となった百間村(百間三組)については、それ以前の組を単位に相給となったため、寛永の地方直し後の状況とほぼ同じとなったのであろう。但し、「新御水帳書抜百姓一人別名寄帳」(折原家文書)には基本的には天領であった源太左衛門組の中に岩付藩の小笠原佐渡守分の土地が見られることや、金谷原小兵衛組に渡した分などが見られることから細部については按分した状況が伺われる。

    まとめ

    今回は宮代町域の内、比較的文書が多く残る村で分析を試みた。これらの結果、「新記」や「郡村誌」に分村した時期や相給となった時期が未記載であったり、誤った情報が書かれていたりする場合などに、ある程度有効な年代感を与えることができる可能性を示唆できたと思われる。絵図や地籍図、文書などを組み合わせて考えると、さまざまな情報を得ることができるのではなかろうか。

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