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あしあと

    04笠原沼代用水の開削と笠原沼新田の開発

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    見沼代用水の開削

    笠原沼の開発のためには、笠原沼の水を用水源としている百間村などに代替の用水を引くことが条件であった。これには享保十二年八月からの見沼溜井(さいたま市)開発に伴う見沼代用水の開削が重要であったと推定される。
    見沼代用水の工事は、下中条村の利根川取入口から新たに新水路を掘り、荒木村で星川と合流させ、その流路を利用し、上大崎地内(菖蒲町)に八間堰・十六間堰を築いた。ここで、星川の本流と分岐させ、これより南は新たに新用水を掘り、元荒川との接点では柴山伏越を、綾瀬川との接点では瓦葺掛渡井を構築し、見沼まで通水した。こうして、下流域の用水源を確保し、見沼は新田開発され、享保十三年春にはすべての工事が終わった(『見沼代用水沿革史』)。

    笠原沼新田開発の計画

    享保十三年三月の「笠原新田割境絵図」(第四章番号二九)に笠原沼新田の計画が示されている。これによると、笠原沼周囲の村八カ村と須賀村定八、下野田村藤助により開発されたことがわかる。周囲の村が笠原沼新田の村請となったのは、それ以前の地先の開発があったためと推定され、幕府の意向だけでなく村方の要請から、村請新田となったと推定される。須賀村定八については不明であるが、下野田村藤助は、黒沼新田の開発者としても確認できることから有力な地主の一人であったと推定される。

    享保13年笠原沼新田割境絵図の写真

    享保13年笠原沼新田割境絵図(笠原沼新田計画図)

    笠原沼代用水の開削

    笠原沼を開発するため、百間村など下郷の用水源の代替として笠原沼代用水が開削された。享保十三年に見沼代用水からの引入口として中島圦樋(菖蒲町)を造り堀幅二間半で通水し、さらに、除堀分水(久喜市)で堀幅七尺の黒沼代用水を分岐させ、堀幅二間となった。庄兵衛堀との接点では原地内伏越を、さらに、野牛村で押掛戸や高岩村で水門を、西粂原村字鎌塚谷で須賀村への分水として圦樋を設け、その後、用水を南北に分け、北側の笠原北側用水(後の中須用水)は須賀村や蓮谷村・中島村、百間東村の松之木島・柚木などの耕地を灌漑した。南側の笠原南側用水(後の百間用水)は、野牛高岩落堀との接点で上野田伏越を、爪田谷落堀との接点では上野田(爪田谷)掛渡井を構築し、さらに、百間村地内の第六天堰で内郷用水を分派し、百間東村や百間中村・百間村の耕地を灌漑した。
    享保十四年十二月の「御普請潰地改帳」(第四章番号三〇)によると河原井沼落(爪田谷落)と野牛堀(野牛高岩落)の開削による潰地が報告されていることから、笠原沼に排水されていた落堀を姫宮堀まで付廻していることが確認できる。笠原沼代用水も遅くともこの頃までには工事が終了していたことを伺わせる。勿論、享保十四年の田地の耕作を考えれば、享保十四年春には工事を終了していなければならなかったが、百間村などの下郷の年貢割付状が残っていないため、詳細は不明である。
    笠原沼代用水の開削はすべて、新たな用水堀を開削したわけではない。江戸時代初期から中期にかけての用水を確認できる史料としては寛文十二年の「騎西領与百間村水論裁許状」(第四章番号一〇)がある。これには騎西領落堀(爪田谷落・金兵衛堀)の末に堰があり百間村が用水として引いていると記される。また、備前堀にも堰があり用水を引いていることがわかる。元禄六年の「騎西領落堀堰論裁許状」(第四章番号一四)の絵図にも、備前堀に堰があり、用水として久米原村や須賀村、蓮谷村、道仏村(百間中島村)、後の百間東村の内松之木島・柚木を灌漑し姫宮堀に落ちていることが確認できる。また、金兵衛堀(爪田谷落)末にも堰が認められ、百間村の大谷耕地などに用水が引かれていることがわかる。笠原沼代用水はこれらの用水を利用し、必要な箇所に新たな新堀を開削した。
    笠原沼代用水の上流については不明であるが、西粂原分水以南は詳細にわかる。笠原沼代用水は西粂原分水で南北に分かれ、笠原北側用水(現在の中須用水)は、ほとんど以前の用水筋を利用した。笠原南側用水は西粂原分水から、爪田谷落の末までは新たに開削し、それ以東は以前の用水を利用した。第六天分水では北方と南方に用水筋が分かれるが、北方の内郷用水は以前の用水筋を利用し、南方の現在の百間用水は新たに開削し、百間東村や百間中村などを灌漑した(第四章番号三八)。これらの用水の開削に伴い、西粂原分水や第六天分水、野牛高岩落との接点は伏越を、爪田谷落との接点は掛渡井を構築したようである。なお、西粂原分水は窪地のため通水が良くないことから、高岩村地内で分水して欲しいとの願書も確認できる(第四章番号三四)。
    笠原沼の開発には下郷の百間村などの用水源を確保すると共に、笠原沼に落ちている悪水を迂回させる必要があった。享保九年には、南側の逆井新田が代官池田新兵衛により開発され、逆井新田の悪水を笠原沼に流し込んでいた。

    黒沼笠原沼代用水ルート図の写真

    黒沼笠原沼代用水ルート図

    笠原沼代用水開削図の画像

    笠原沼代用水開削図
    ・・・・が新たに開削した用悪水堀

    笠原沼の開発と堀上田

    享保十三年見沼溜井を開発した井沢弥惣兵衛は笠原沼の本格的な開発を始める。沼の北側では、水除堤を造り、笠原沼へ流れ込んでいた爪田谷落や野牛高岩落を下流の姫宮落堀に繋げるため笠原付廻堀を掘り、迂回させ悪水を古利根川に落とした。一方、沼の南側でも水除堤を造り、沼に流れ込んでいた逆井新田落を沼下へ導いた。こうして、上流からの排水を迂回させ、さらに、沼の水を抜くため中水道を開削し、その下流に笠原沼落堀を掘り、「溜沼争論絵図」に確認できる小沼の悪水を落としていた堀に接続し、姫宮落堀に接続させた。しかし、姫宮落堀との合流地点で水が溢れてしまったため、享保十四年、新たに新堀を造り直接、古利根川に排水した(蓮谷村加藤家文書二)。これにより、百間村(百間西原組)、百間西村(百間中村)、百間東村、百間中島村、蓮谷村、須賀村、爪田谷村、久米原村、須賀村定八、下野田村藤助の八カ村と二名により、笠原沼の新田開発が行なわれた。さらに、窪地であったため、串歯状に堀を掘り、その土を嵩上げすることで田地にした。
    開発当初から堀上田であったかについては検地帳(文書番号一一〇・百間中島村岩崎家文書一九五一)に記載されていないため明らかでないが、「笠原沼須賀村新田明細帳」(須賀村戸田家文書一五九)に「右ハ前々より窪地ニ御座候ニ付掘上ケニ御願申上候而、五分通リ之掘上ケ田ニ被仰付、依之ニ用水引不申候」とお願いによって堀上田になったとある。しかし、享保十六年の「土浮立帰書上」(第四章番号三一)に「笠原沼御新田ニ付前々より掘付田堀敷之分三反五畝十四歩之所」とあり、遅くとも享保十六年には堀上田になっていたと推定される。こうして、笠原沼は、享保十九年筧播磨守により検地が行われ、一九二石余りの笠原沼新田として生まれ変わった(『みやしろ風土記』)。

    笠原沼新田付近地籍図の画像

    笠原沼新田付近地籍図(青が宅地、黄色が田んぼ、オレンジが畑、緑が山林・茅場、水色が用水・悪水等)

    *第○章番号○○や文書番号○○とは宮代町文化財調査報告書第12集『東粂原村岡安家文書』の番号である。
    *本文章は本報告書第1章第3節を抜粋したものである。

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