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08.宮代町中世年表

[2016年11月22日]

ID:2661

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宮代町中世年表
年号西暦出来事
奈良時代この頃、西光院、行基により開かれると伝わる。
平安時代「和名類聚抄」により大田郷などが確認できる。
この頃、藤原秀郷流の太田行尊を開発領主として太田荘が成立する。
安元2年1176西光院阿弥陀三尊像が造られる。
治承5年1181志田義広は源頼朝に反旗を翻す。頼朝、古我渡し・高野渡しを固めるよう命じる。
建久5年1194太田荘の堤を修復する。この頃、地蔵院の阿弥陀如来坐像が造られる。
元久元年1204鎌倉の法華堂の重宝が盗まれたが、武蔵国洲河(須賀)の地頭が盗賊を捕らえ恩賞を受けた。
寛喜2年1230小山朝政、嫡孫、小山長村に上須賀郷などの所領を譲る。
正安3年1301観音寺墓地に宮代町最古の板碑が造立される。
元享4年1324称名寺(横浜市)は高野川の橋についての権利を先例の通り認められる。
延文6年1361「市場祭文」によると須賀や久米原に市が開かれていたことがわかる。
貞治6年1367西光院に宮代町最古の宝篋印塔が造立される。
この頃、真蔵院木造如来形立像が造られる。
康暦2年1380小山義政、鎌倉公方足利氏満に反乱し、所領を没収される。
永徳2年1382足利氏満、安保憲光に小山氏から没収した太田荘須賀郷半分を与える。
応永2年1395足利氏満、安保憲光に須賀郷半分の替地として、常陸国下妻荘小嶋郷半分を与える。
応永21年1414姫宮神社に掲げられていた鰐口が旦那大夫五郎により奉納される。
長禄2年1458西光院阿弥陀如来立像の修理が行われる。この頃、西光院阿弥陀堂建立(再建)されたものと考えられる。
この頃、西方院の十一面観音像造られる。地蔵院遺跡で在地土豪の館が営まれる。
永正15年1518太田荘光福寺(西光院)実栄は経筒を十覚坊に託し、笈岳に埋納する。
この頃、伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡に在地土豪の館が造られる。
天文22年1553百間光福寺(西光院)の僧ら雷電宮へ鰐口を奉納する。
永禄7年1564太田資正、嫡子氏資により岩付を追放される。
これより以前、資正、西光院へ百間6カ寺のうち廃寺となった3カ寺の所領を安堵する。
永禄13年1570岩付城代北条康成、岩付当番衆の西光院での狼藉行為について、厳罰にすることを証する。
元亀3年1572北条氏政、鈴木雅楽助に軍役を課す。
天正3年1575この頃、北条氏政の子国増丸岩付太田氏を相続し太田源五郎を名乗る。
天正9年1581太田源五郎、鈴木雅楽助に改めて軍役を課す。
この頃、中寺遺跡で館が営まれる。
天正10年1582太田源五郎死去。岩付領は後北条氏当主の直轄領となる。
天正13年1585北条氏政、鈴木雅楽助に改めて軍役を課す。
北条氏房、岩付領支配を本格的に始める。
天正14年1586岩付城主北条氏房、西光院に百間6カ寺の所領を安堵する。
天正15年1587鈴木雅楽助、北条氏房から石倉の小奉行に任命される。
天正16年1588氏房、岩付城に兵糧米を納めるよう鈴木雅楽助に命じる。
天正18年1590豊臣秀吉、小田原城攻めを開始する。
氏房の家老伊達房実、鈴木雅楽助をはじめ在地領主に全ての兵糧を岩付城に運び込むよう命じる。
後北条氏、鷲宮神社神主へ久米原郷、和戸郷などの所領を安堵する。
小田原城開城。後北条氏滅亡。
徳川家康、駿河ほか4カ国から、関東へ国替えとなり江戸へ入城する。徳川家臣高力清長、岩付城へ入城する。
天正19年1591家康、西光院へ寺領50石を寄進する。
この頃、西光院、中興開山日雄により新義真言宗に改めると伝えられる。
文禄元年1592徳川家から旗本服部権太夫政光に太田荘3千石を与える。
この頃、地蔵院遺跡や伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡で館が営まれる。
慶長20年1615服部権太夫政光、大阪夏の陣で京都に滞在中死去。子、政信が後を継ぐ。
元和5年1619服部権太夫政信、遠江国今切の関所番となり、同国敷智郡へ移され百間の地を離れる。

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