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あしあと

    04 文献史学的手法による調査

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    文献史学的に旗本服部氏についてわかる直接史料(旗本史料、地方史料)は幕府で編纂されたもの以外には皆無といえる。僅かに残る地誌や家譜などから旗本服部氏を考えてみたい。

    1)旗本服部氏の太田庄支配

    (1)『寛政重修諸家譜』によると
    服部家の祖先は、伊賀国服部(三重県上野市)の住人で、永禄3年(1560)に家康に仕えたと伝えられている。政季(政光)は天正18年(1590)の小田原への参陣の際には、家康に従い本多忠勝の配下に属し、御使番を勤めている。徳川家康の駿河から関東への移封に伴い、文禄元年(1592)に武蔵国太田庄の内3000石を宛がわれた。さらに、慶長5年(1600)の上杉景勝の征伐に参陣し、この後に近江国長浜(滋賀県長浜市)に1000石の領地を与えられている。その後、慶長19年の大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣にも参陣し、同年4月26日に京都で没している。妻は岩槻城主高力清長の女子である。政季(政光)の子の政信は、慶長5年の関ヶ原の戦いに参陣して御使番を勤め、帰陣後に武蔵国臼井で500石の領地を宛がわれている。慶長19年の大阪冬の陣、元和元年の大阪夏の陣にも御使番を勤めている。同年、父の遺領のうち、3000石を相続し、併せて3500石を知行した。その後、元和5年遠江国今切(静岡県浜名郡新居町)の関所番となり500石を加増され、采地も遠江国敷智郡に移されたと記される。

    (2)『記録御用書本古文書』・・・史料1・2
    徳川家康から服部与十郎に天正20年(1592)2月1日太田荘の内3000石を与えられたことがわかる。徳川秀忠から服部権太夫に寛永2年(1625)12月11日に遠江国敷智郡に所領を与えられた朱印状が残る。

    (3)『寛永諸家系図伝』によると・・・史料7
    服部政光に天正19年(1591)武州太田領3000石を賜る。
    元和元年(1615)政光死去、政信父の遺領の内太田荘3000石を継ぐ。
    元和5年(1619)遠江国今切の関所番として遠江国敷智郡へ移封。

    (4)『武徳編年集成』・・・史料4
    天正18年(1590)8月武蔵太田郷3000石を服部権太夫政季が賜る。とある。

    「武徳編年集成」の写真

    赤線部分に太田庄百間郷三千石とある。「諸家系譜」服部与十郎政季の条

    2)太田庄百間郷の範囲

    文禄元年、徳川家康から旗本服部政季に太田庄3000石が与えられたことがわかる。しかし、太田庄のどこに所領があったかについては判明しない。しかし、平成15年1月に(独)国立公文書館内閣文庫に年未詳「服部家略譜」や文化8年「諸家系譜(服部)」があることが分かり調査を行った。その結果、服部政季・政信父子が領したのは太田荘の内百間郷3000石であることが判明した。
    それでは百間郷3000石とはどの範囲をいうのであろうか。元禄16年の「日光御成道道拵免除願」(百間村折原家文書4717)によると「先規百間村一村ニ而高弐千四百石ニ御座候」とあり百間村は2400石であることがわかる。残りの600石については、その後の百間村相給を考えるとわかる。

    寛永元年(1624)、百間村は旗本朽木氏、永井氏、池田氏にそれぞれ1000石づつに分け与えられた。「武蔵国田園簿」によると百間村隣村須賀村には「阿部対馬守知行 弐百六石弐斗六升」とある。「元禄郷帳」では須賀村の石高は「八百弐拾五石九斗壱升九合」とあり、約600石の誤差が生じている。須賀村は岩槻藩領の他、旗本池田氏・永井氏の知行地でもあった。永井氏・池田氏との須賀村の知行地はそれぞれ300石であったことが戸田家文書(旗本永井氏)や渡辺家文書(旗本池田氏)の年貢割付状により確認されている。一方、百間村(百間東村)の永井氏知行地は700石、百間村(百間中村と百間中島村)の池田氏知行地は700石であったことが確認されている。これらのことからも、百間村2400石に須賀村600石を併せた範囲が服部氏の知行地であったと推定される。

    旗本服部氏の領地

    黒色部分が宮代町における旗本服部氏の領地(須賀村は岩槻藩領含む)

    3)百間陣屋(旗本服部氏屋敷)

    服部氏の陣屋(屋敷)については、「新編武蔵風土記稿」や『百間史料』にその記載がある。

    (5)『新編武蔵国風土記稿』
    「服部氏の家譜に、権太夫政信慶長20年父政光が跡、武州太田庄3千石に自領500石を合わせ是を賜うと記せり。村内(百間村三組)に権太夫が屋敷跡あれば彼所領なるべし。」

    (6)『百間史料』
    「権太夫が屋敷跡は今の青林寺の境内及其北林是なりと云う。」と服部権太夫の屋敷が百間村の西原にある青林寺付近であると伝えられていることを記している。
    元和5年の百間村検地帳(百間三組分)が残っていないため詳細は不明であるが元禄10年の百間村検地帳では、すでに青林寺は現在地にあることが確認されている。検出された堀の覆土に宝永の火山灰が堆積していないことからもそれ以前に破城されたものと推定される。

    4)旗本服部氏の百間郷から移封

    『寛永諸家系図伝』によると政光(政季)の子政信が「同五年勤遠州今切関御番干時加賜五百石」とあり元和5年に遠州今切に赴任したことがわかる。
    『記録御用所本古文書』にも寛永2年に徳川秀忠から服部権太夫宛の朱印状が確認できる。
    これらのことから、旗本服部氏は文禄元年(1592)から元和5年(1619)まで百間郷に領地があったことが推定される。服部政信の従兄弟である岩槻藩主高力忠房が元和5年に浜松に移封したことと関係があると推定される。
    なお、高力忠房も寛永2年に秀忠からの印判状が確認できる。元和5年に百間領5000石の天領(幕府領)の検地が行われているのは、旗本服部氏が百間郷を離れたためであろうか。

    「寛永諸家系図伝」の写真

    赤線部分が百間郷三千石と記される。(「諸家系譜」服部、服部権太夫政信の条)

    5)服部政光と政季について

    「寛政重修諸家譜」や「寛永諸家系図伝」では太田庄を領したのは政光と記されるが他史料では政季と記される。「寛政重修諸家譜」編纂にあたり服部家から出された「服部略譜」や「諸家系譜」などでも政季と記されている。しかし、「寛政重修諸家譜」では政光となっているが、これは「寛永諸家系図伝」を引用したからであろう。このようなことから、「寛永諸家系図伝」の編纂の際、政光と政季を錯誤し記載したものと推定される。

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