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あしあと

    平安~安土桃山時代

    • [公開日:]
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    • ID:1752

    平安の祈り

    大化の改新(645年)以後、新しい政治の制度がしだいに整えられ、大宝律令(701年)の制定によって律令国家が確立しました。国や県、郡の区域も整備され、都から国の長官である国司も派遣されました。当時、町域は、武蔵国埼玉郡大田郷に所属していました。平安時代には、そのような体制もしだいに崩れて、地方の治安も乱れ、武士の発生をうながしました。武蔵国でも武蔵七党と呼ばれるように多くの武士団が形成されています。

    鎌倉街道沿いの村 須賀郷

    武士の棟梁である源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、武家による政治が始まりました。鎌倉時代、当地域は武蔵国太田荘にあって、その初期には、将軍家の直轄領となり、中頃以降執権北条氏の所領となっていったといわれています。当時、須賀の一部は「上須賀郷」とよばれ小山氏が支配し、室町初期、一時安保氏の所領となりました。さらに戦国時代には、百間の一部は岩付(岩槻)太田氏の所領となったようです。その家臣に百間の土豪、鈴木雅楽助がいます。また西光院は、太田氏の祈願所として厚く護られていました。一方、町域を奥州への本道である鎌倉街道中道が通っていました。古利根川を境として下総国と接し、交通の要所となっていました。現在もそのころの名残りと思える宿屋敷(東粂原)や宿(須賀)という地名が残っています。

    埼玉県内の鎌倉街道

    町域の鎌倉街道

    関東御教書(高野川橋が見られる)
    (称名寺所蔵、神奈川県立金沢文庫保管)

    足利氏満判物
    (横浜市立大学学術情報センター本館所蔵)

    小山朝政譲状(小山氏所蔵、小山市立博物館提供)

    市場の祭文

    市場の祭文とは、市が開かれる際に行われる市祭りで、修験者(山伏)が市神にささげる祝詞のことです。後半部には武蔵国や下総国の33箇所の市が列記されています。これらの市は、修験者による市祭りの祭祀圏を示しているものといわれています。なお下写真の赤線部分には町域の久米原市と須賀市が記載されています。久米原市が現在の東粂原鷲宮神社付近、須賀市が現在の真蔵院付近と推定されています。

    市場祭文(国立公文書館所蔵)

    西光院阿弥陀三尊像

    平安時代中頃、浄土の教えの広まりとともに、来世に安楽をもとめる阿弥陀信仰が盛んになりました。こうした信仰を反映して、平安時代末期の安元2年(1176)に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三体からなる阿弥陀三尊像が造られました。ヒノキ材を用いた寄木造で、おだやかな丸みのある像は、当時流行した定朝様式と呼ばれる特徴を良く表わしています。胎内銘から戦国時代の長禄2年(1458)に、修理が行われたことが分かります。大正3年、国の重要文化財に指定されました。

    地蔵院阿弥陀如来像

    檜材寄木造りで、後世に大幅な修理が施され、彫眼は玉眼に改められていますが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造られたと推定されます。

    西光院中世文書

     西光院には、中世文書が3点伝来します。いずれも岩付城主(もしくは城代)が発したもので、岩付城と西光院の密接な関係を裏付けるものといえます。岩付城は当初太田道灌の流れをくむ岩付太田氏の持城でしたが、後に小田原に本拠のあった北条氏の直轄となり、重要拠点として玉縄城主(神奈川県鎌倉市)の北条康成(後の氏繁)が入城しました。その後に北条氏政の次男源五郎が岩槻太田氏の養子となり、岩付城に入るようです。しかし、天正10年(1582)前後には、その弟北条氏房が岩付領の領主となりました。後の天正18年(1590)5月豊臣秀吉の小田原城征伐の結果、小田原北条氏は滅びました。

    太田資正判物写(年号不詳)

    岩付城主太田資正が、「百間6ケ寺の内3か寺が衰退しその跡を西光院に寄進するので、岩付城の繁栄を祈願するように」と伝えた文書です。

    北条康成書状(元亀元年)

    岩付城代北条康成(玉縄城主)が、「岩付の当番衆が乱暴狼藉をしているそうであるが、その時は狼藉者の姓名を聞き出し小田原に訴えるようにせよ、きっとその者を罰する」とした証状です。この文書から、当時岩付城が領国の境目にあたる重要拠点として、在番制により維持されていたことがうかがわれます。

    北条氏房判物(天正14年)

    岩付城主北条氏房が、「今までどおり百間の6ケ寺の支配と寺社の領地を認める」というものです。

    中世の西光院

    西光院は当地域の中心的な寺で末寺、門徒、塔頭あわせて27カ寺あったと伝えられています。西光院の寺域には本堂の他、阿弥陀堂、五社神社、東照宮、東光院、大蔵坊、不動坊などがありました。これらの寺社群は字西から西光院に至る道路に面しており、西端と東端には惣門がありました。惣門は城郭などに見られる喰い違いの虎口の形態をとります。また、惣門前や西光院境内の北側と西側などには堀も残り、中世の要塞化した寺院を偲ばせます。なお、百間の武将鈴木雅楽助の館も西光院の寺域内にあったようです。
    昭和27年に火災により焼失した阿弥陀堂や四足門は室町時代の建造物と伝わっています。阿弥陀如来像の修理が行われた長禄2年(1458)頃に建てられたものと推定されます。

    西光院絵図(中央左側に西光院、中央右側に阿弥陀堂・五社神社などが見られる)東京国立博物館所蔵

    西光院本堂四脚門

    西光院阿弥陀堂正面

    西光院阿弥陀堂側面

    西光院阿弥陀堂内陣

    中世の西光院イメージ図

    鈴木雅楽助と百間郷

    鈴木氏由緒書
    (鈴木日向守軍功記)

    鈴木氏墓碑(拓本)

    鈴木氏由緒書(系図)

    戦国時代末期には、岩付城主であった北条氏政や北条氏房、太田源五郎の家臣であった鈴木雅楽助が百間を支配するようになりました。岩付城主から与えられた古文書が6点確認されていますが、現在その行方は不明となっています(下の写真はいずれも国立公文書館所蔵の写)。
    鈴木家は元は古河公方や管領上杉氏に仕えたと記されていますが、最終的は後北条氏に仕えました。
    中寺遺跡からは鈴木雅楽助の館と関係のあると推定される城館が発掘されています。

    太田源五郎印判状写
    (太田源五郎は北条氏政の子)

    北条氏房印判状写
    (氏房は氏政の子で源五郎の弟)

    北条氏房印判状写

    伊達房実判物写

    十一面観音像・笈岳経筒

    西方院十一面観音像(町指定文化財)

    笈岳経筒
    (太田庄光福寺住と刻まれる。
    光福寺は西光院の名称)
    (東京国立博物館所蔵)

    発掘された中世城館跡

    郷土資料館建設に伴う地蔵院遺跡の発掘調査で、中世の館に伴うと考えられる堀(薬研堀)が検出されました。堀の覆土中からは、15~16世紀後半の在地産の内耳鍋や板碑、瀬戸美濃系の陶器等が出土しました。建物の跡などは確認されていませんが、おそらく、鈴木雅楽助と同じような在地の土豪が住んでいた館だと思われます。また、平成2年の中遺跡の発掘調査では、神外坊西側を画するように中世の堀も検出されています。この他、西原地区の伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡では平成12年~平成15年度にかけて5回に渡り発掘調査が行われています。調査の結果、旗本服部氏が文禄元年(1592)に百間に陣屋を築く以前の堀や掘立柱建物跡、井戸、土坑、柱穴なども多数発見されており百間郷の領主の城館であると推定されます。また、中寺遺跡からは平成10年度と14年度の調査の結果、掘立柱建物跡や井戸、溝などが検出され、鈴木雅楽助の館と関係があると推定されます。

    中寺遺跡 掘立柱建物跡(鈴木雅楽助館?)

    伝承旗本服部氏屋敷跡 堀出土鏡

    伝承旗本服部氏屋敷跡 堀出土志野皿

    地蔵院遺跡 内耳土鍋

    地蔵院遺跡 在地系擂鉢

    地蔵院遺跡 天目茶碗

    地蔵院遺跡 古銭

    地蔵院遺跡 堀

    伝承旗本服部氏屋敷跡 堀
    (平成12年度)

    伝承旗本服部氏屋敷跡 堀
    (平成13年度)

    姫宮神社・西光院雷電社鰐口

    鰐口は、神社や寺院などの軒下につるし、これを布で編んだ綱を振って打ち鳴らし、参詣者の来詣を神仏に告げるものです。この鰐口は、応永21年(1414)3月の銘があり「敬白 武州太田庄南方百間姫宮鰐口一口旦那大夫五郎」と記されています。百間の地名の初見であり、また百間が中世太田荘の南方に位置していたことがこれによって分かります。そして、太田荘の南限を知る貴重な資料です。
    天文22年(1553)に五社神社と阿弥陀堂の間にあった雷電神社に奉納されたもので、新編武蔵国風土記稿に掲載されているが、現在は所在不明である。

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    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

    電話: 0480-34-8882

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