ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

あしあと

    第12回 島村家の系譜(11)

    • [初版公開日:]
    • [更新日:]
    • ID:2716

    島村盛助(6)

    盛助の没後に刊行された遺稿「失楽園」の巻末にある年譜によると、
    明治四十四年九月 私立下野中学校教諭となる。
    大正元年十一月 私立埼玉中学校教諭となる。
    とあります。
    私立下野中学校は、現在の作新学院高等学校です。まだ調査を行っていないため、いつまで勤務していたのか、あるいは関連資料があるかどうかも含め、残念ながらほとんどわかっていません。
    私立埼玉中学校は、現在の埼玉県立不動岡高等学校です。同校の開校記念誌である「開校五十年史」及び「不動百年」を見ると、盛助に関する記述を数ヶ所見つけることができます。
    まず「開校五十年史」の記述によると、盛助の在職期間が大正元年十一月から、同九年六月までであることがわかります。のちに山形高等学校の教授に任じられたのが同年七月のことでしたから、ぎりぎりまで在職していたようです。
    さらに「不動百年」では、卒業生の追想のなかに、盛助に関する記述が数ヶ所見られます。
    さて、このように教員としての道を歩み始めた盛助でしたが、読売新聞への「貝殻」連載にひきつづき、作家・翻訳家としても多くの作品を発表していきます。
    特に、大正元年八月に刊行された「ホトトギス」第十五巻第十一号から七回にわたり連載された「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、メレジュコフスキー原作の翻訳としては三作品目となるものです。
    また、読売新聞にも何度か作品が掲載されましたが、小説というよりは随筆のような作品が多いようです。
    大正九年七月に山形高等学校教授職を任ぜられると、盛助の生活の拠点は山形に移ります。作品を発表することも少なくなり、山形高等学校関係の雑誌への寄稿のみとなっていくようです。

    若かりし頃の盛助の写真

    若かりし頃の盛助

    お問い合わせ

    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

    電話: 0480-34-8882

    ファックス: 0480-32-5601

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム