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あしあと

    第09回 島村家の系譜(8)

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    島村盛助(3)

    明治三十六年七月に旧制浦和中学校を卒業したのち、盛助は旧制第一高等学校大学予科第一部(以下「一高」とします。)に入学します。同年九月のことでした。
    当時の一高は、東京帝国大学予備門として成立した歴史から、帝国大学に入るための準備校のような位置づけでした。そのために、全国の高等学校の首位に位置し、その入学試験は最も難関とされていたそうです。
    一高では、寄宿舎への全生徒入寮制が採用されていたため、盛助は現在の東京都文京区本郷にあった一高の寮で過ごしていたものと思われます。寮では「ろう城自治」と呼ばれる訓育方針がとられたことから、学生自治を尊ぶ一高独自の校風が形成されました。
    そして、この一高での学生生活においては、盛助の生涯の中で考え方や生き方などへの影響を与えた恩師や友人との出会いもありました。
    まずは夏目漱石です。漱石は盛助が入学する年の四月から、一高と旧制東京帝国大学(以下「東京帝大」とします。)において講師として教鞭をふるいました。漱石と盛助が教師と学生という関係でいる期間は、盛助の一高入学から、漱石が一切の教職を辞した明治四十年二月までなので、約三年間といえるでしょう。漱石とはその後もなにかと縁が続いていたようですが、その話はまた別の機会に譲りたいと思います。
    一高の先輩としては、夏目漱石の門下生と呼ばれる小宮豊隆、阿部次郎、野上豊一郎のほか、岩波書店の創設者である岩波茂雄や、のちに旧制山形高等学校での同僚となる吹田順助がいました。
    また、同級生として卒業をした人には、戦後の文部大臣や学習院院長を勤めた安倍能成や、俳人の富安風生(謙次)、木下杢太郎(太田政雄)、宮本和吉などがいます。
    後輩には谷崎潤一郎がいますが、どのくらいの親交があったかは、いまのところわかっていません。
    写真は、一高時代の集合写真です。かなりわかりづらいですが、上から二段目の一番左の人物が盛助です。同じく上から二段目の中央あたりにいる、頭一つ分抜き出ているのが安倍能成です。後の回で取り上げますが、安倍は晩年の盛助を訪ねて、何度も宮代の地に訪れていることが地元に伝わっています。
    (前号引用文中の「dormiloly」は「dormitory」の誤りでした。お詫びし訂正いたします。)

    一高時代の盛助の写真

    一高時代の盛助

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