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あしあと

    第08回 島村家の系譜(7)

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    島村盛助(2)

    盛助が旧制浦和中学校に入学したのは、開校まもない明治三十年のことで、第三回生としてでした。

    学生時代の盛助がどのようであったのか、知ることのできる資料はなかなかありません。百年近くも前の話ですから、本人が書いたものなどが見つからない限り、詳しく知ることは大変難しいことです。幸いなことに、現在のところ唯一といえる貴重な資料が、埼玉県立浦和図書館が所蔵する地域史料の中にありました。旧制浦和中学校の関係資料の中にあるそれは、「昔の話」という題で、盛助が中学校時代の思い出を記しているものです。その一文をご紹介します。(原文の旧漢字や旧かなづかいは、読みやすく改めました。)

    「浦和中学時代の昔話を書いてくれという御依賴ですが何か思い出して書いてみようと思います。私が入学したのは明治三十年です。(中略)鹿島台の旧校舍もまだ開校して間もないことなので渋塗りの色も新らしく堂々と聳(そび)えていました。すくなくも当時の少年の私の眼にはそう映じたのでした。(中略)入学するとすぐ寄宿舍にはいりました。当時の寄宿舍は万事軍隊式になっていました。私は開校二年目に入学したのですから寄宿舍に、前年入学した三年生と二年生の先輩がいるわけです。(中略)部屋の掃除や何かは皆新入生がやるのですし、少しでも旧入生の御機嫌を損ずると恐ろしい顏を見せられたものでした。尤(もっと)も今から考えてもこんな事は当然の事のようにも思われるのですが、それにしてもなかなか猛烈なものではありました。

    当時すでに野球はやりました。然しその頃の事ですから、クラブやミットなどは殆んど無いのです。今日の皮革の統制なぞあの時分だったら平気だったでしょう。プレーヤーは主として寄宿舍でした。水兵のシャツのように頭からかぶる白小倉の半袖のシャツの胸のところにDの字を黒羅紗(くろらしゃ)で切りぬいてぬいつけてあるのが、今日でいうユニフォームなのです。Dというのはdormitoryの頭文字で、この英語が寄宿舍という意味になっていたのです。ゴロを取りそこねるとシャツの中へ球がころげ込むほど胸のところが大きく開いていました。そして紺の脚袢に足袋跣足(たびせんそく)で神奈川あたりへ試合に出かけたのですから相当な心臟のチームであったことは確かです。但し試合に勝った記憶一つもないところを見ると技倆(ぎりょう)はさほどのものではなかったようです。(下略)」

    寄宿舎での生活の様子がうかがえ、また、大変な野球好きであったその始まりが中学時代であることが、この文から推察することができますね。

    埼玉県浦和中学校 絵はがきの画像

    埼玉県浦和中学校 絵はがき

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