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あしあと

    03笠原沼開発前史

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    笠原沼と小沼

    笠原沼新田は村請の新田として、久米原村・百間東村・百間西村(中村)・百間中島村・百間村(百間西原組)・蓮谷村・須賀村・爪田谷村の八カ村と須賀村定八、下野田村藤助の二名により開発された。こられの新田は終始天領に属した。笠原沼新田が村請で開発された理由は、それ以前の経緯によってであると推定される。
    元々、笠原沼はどの領主にも属さない沼状の低湿地であったと推定される。元和五年(一六一九)の百間村検地帳は確認されていないため、不明であるが、それを抜書きし享保十四年に写した「百間中島村水帳写百姓持高改帳」(百間中島村岩崎家文書一九五二)によると、すでに小沼耕地が田地として把握されている。これらのことから、元和五年にはすでに笠原沼と小沼は分離され小沼耕地は田地として把握されていたことがわかる。万治二年(一六五九)の「溜沼争論絵図」(第四章番号八)にも小沼耕地は堤により四方を囲まれていることや、小沼の排水を姫宮堀に落としていたことも確認できる。

    溜井としての笠原沼

    笠原沼が下郷の溜池としての機能が成立することがわかるものとして、享保七年の「地先出入訴状」(第四章番号二四)がある。これによると「大河内金兵衛様御奉行として上郷より悪水落堀笠原沼に御堀込被遊候、其上沼下姫宮堀ニ常堰を築、上郷落水を溜置下郷之用水ニ引申候」とあり、寛永年中、「地方の奉行」である大河内金兵衛により笠原沼下手に横手堤(現在の百間新道の延長)を築き、爪田谷落(現在の姫宮落堀上流)を笠原沼に落とすことで笠原沼の水量を上げ、姫宮堀(現在の姫宮落堀下流)に堰(道仏堰)を造り百間村の用水として利用するようにしたことが確認できる。「溜沼争論絵図」では上手にも堤があることが確認できる。これらは、所謂関東流と呼ばれる手法で上と下に土手を造り、その下流域である百間村の田地に用水を引くために構築されたと推定される。
    本絵図では字五丁付近の田地に水がかぶっていることがわかる。これは姫宮堀に二カ所の堰が構築されていることと関係があると推定される。寛永十三年(一六三九)の「須賀村年貢割付状」(須賀村戸田家文書一〇七)には、永荒地として「壱町八反壱畝歩毎年荒ニ付」と記載されることから、本絵図に見られる字五丁付近を指すと推定される。元和五年に田地として把握されていた場所(字五丁付近)が寛永十三年に永荒地となっていることから、笠原沼は、元和五年から寛永十三年までの間に大河内金兵衛により、騎西領の悪水を笠原沼に落し、下流域の百間村の用水源としての溜池的機能を有するようになったと推定される。
    なお、爪田谷落堀はこの当時、金兵衛堀と呼ばれていた。「騎西領落堀堰論裁許状」(第四章番号十四)によると現在の備前前堀も金兵衛堀と記載される。

    溜沼争論絵図の写真

    溜沼争論絵図 字五丁付近、田んぼに水がかぶっている。

    笠原沼をめぐる水争い

    笠原沼をめぐる水争いで確認できる最も古いものは、万治二年の百間村と笠原沼近所の村との水争いである(「溜沼争論絵図」)。これは、姫宮堀に構築された二カ所の堰により、笠原沼北縁の字五丁付近の田地が水損になったことから起こったと推定される。字五丁付近の領主として旗本永井氏・池田氏・水野氏が確認できることから、近所の村とは、須賀村と久米原村を指すと推定される。二カ所の堰の内、一カ所は後に道仏堰と呼ばれる堰を表す。笠原沼代用水開削後の中島堰の位置とさほど変わらない。これは、小沼耕地の用水源として、もう一カ所は現在の県道蓮田杉戸線の東側に位置し、大谷耕地の用水源として利用されたと推定される。
    その後、寛文十二年(一六七二)には百間村と騎西領とで水争いが起こる。これは、騎西領落堀(爪田谷落堀)の末に百間村が堰を造り用水を造ったことに由来する。笠原沼代用水開削の際、この用水は内郷用水として活用されることになる。また、備前堀にも用水堰があったことが記載される。
    元禄六年(一六九三)には西原村(百間村)・西村(百間中村)・東村(百間東村)・道仏村(百間中島村)と久米原村・須賀村・爪田谷村との争いが起こった。これは、笠原沼の下手である姫宮堀に道仏堰と呼ばれる恒常的な堰を造ったことに由来し、万治二年の水論とまったく同じ状況下での水争いと考えられる。裁許の結果は、道仏堰から百間領の村々が用水を引くことは認められたが、堰の大きさや沼が満水の際は堰を取り払うことなども取り決められた。
    さらに、正徳三年(一七一三)、正徳五年の水争いは、野牛村の領主新井白石により野牛高岩落堀が掘られたことによる。高岩落は、すでに元禄六年には確認できるが、野牛村の悪水を高岩落に接続したため、笠原沼の水量が大幅に増えたことに起因すると推定される。
    享保七年には道仏村・東村・西村・百間村と久米原村・爪田谷村との道仏堰をめぐる争いが起こる。また、道仏村と蓮谷村との真菰刈り取りの争いも起こる(第四章番号二二)。これらは、いずらも道仏堰を恒常的な堰としたい百間村や道仏村・西村・東村と臨時的な堰としたい久米原村や須賀村・蓮谷村・爪田谷村との思惑の相違から起こったものと考えられる。
    須賀村では元々、「永荒地」と認められていた場所(須賀村戸田家文書一〇七)に元禄元年頃から、真菰を植え出し、さらに、宝永五年(一七〇八)には開発を領主(旗本永井氏)に命じられている。享保七年にも笠原沼縁部である地先の開発により旗本永井氏の須賀村と天領及び旗本池田氏の須賀村との争いが起こる(第四章番号二〇・二一)。蓮谷村でも天領であった元禄三年の検地で、笠原沼周囲での流田が認められている。久米原村でも、天領であった元禄三年の検地帳(文書番号一〇八)に流田が認められていることから随時、笠原沼周囲で開発が行われていたことがわかる。享保七年の裁許では宝永五年の見取場や当年植え出した分は勿論、元禄三年の「流田検地」以外の金兵衛堀以南への笠原沼へ植え出した分はすべて取り除くようにと取り決められた(第四章番号二二)。
    このように、幕府の意向と反する形で、村方や領主は笠原沼周囲で開発を行っていたため、大水の際に、下流域の百間村などと水争いになったと推定される。

    万治初年頃 溜沼争論絵図の写真

    万治初年頃 溜沼争論絵図

    元禄6年 騎西領落堀堰論裁許状絵図の写真

    元禄6年 騎西領落堀堰論裁許状絵図

    村方からの開発要請

    笠原沼周囲では各村が独自に地先の開発を行なってきたことは述べてきたが、蓮谷村加藤家文書には逆井・下之谷の二カ所の「野」の開発願いが確認できる(第四章番号二六)。各村に属さない場所は、開発の対象となり、村方から開発願いが出され、開発が行われたようである。有名な見沼の開発においても、頻繁に地先の開発が行われていることが確認されている(『見沼代用水沿革史』)。
    このように、享保期の開発は、幕府からの一方的な開発指示だけでなく、村方の開発要請により体系的な用水筋の改革により関東流で溜池となった沼地を開発したと推定される。勿論、頻発する水争いをなくすためには用水の有り様を変えようとする幕府の意向も大きかったとも考えられ、幕府、領主、村方三者の利害が一致する形で、笠原沼の開発も行われた。

    笠原沼代用水の開削と笠原沼新田の開発

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