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あしあと

    03 歴史地理学的手法による調査

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    明治10年の百間7カ村の地籍図によると字西原はほとんどが百間西原組に属するが西側に百間村・百間東村・百間中島村の飛地が存在することがわかる。さらに百間村の飛地南端を画するように細長い区画が見られ、現在新設された集落道路6号線との交差地点付近は区画がずれている。この屈曲部分は喰い違えとよばれる城郭の虎口を想定させ、門の存在が推察される。地元ではこの付近を「ダイモン(大門)」と伝えている。また、東側の百間東村との境には南北に細長い区画が認められ、東から南にかけては細長い区画が「L」字に配されることがわかる。南側の百間村と百間西原組を画する細長い区画は発掘調査により堀であることが確認された。

    青林寺周囲にも細長い堀を想定させる区画が残り南部には喰い違えとよばれる城郭の虎口を想定させる区画も残る。さらに、青林寺と地蔵院前には城下町や宿場などに多く見られるクランク(枡形ともいう)が見られる。このクランク間の道を「馬場道」と呼ぶ。西側のクランクはさらに北側へ折れることからこの付近を「ナナマガリ」と呼ぶ。これらからも西原地区一体は中世百間郷の宿場や城館であった可能性を伺わせる。

    谷を挟み北側には宿地区と呼ばれる集落がある。江戸時代中期以降は「源太宿」、江戸時代前期は「後宿」と呼ばれていた(万治2年頃溜沼争論絵図、地蔵院勝軍地蔵体内文書)。百間村では主体的なものの北側を「後」と呼んでいる。「後宿」の存在からも主体的な西原地区にあった中世百間郷の領主の城郭や近世初頭の旗本服部氏の陣屋を想定することができるのではなかろうか。なお、宿・源太山遺跡(「後宿」「源太宿」)からは中世の板碑や古銭、土坑などが検出されている(宮代町遺跡調査会報告書第2集「宿・源太山遺跡」)。

    一般的に「宿」という名称は近世の街道沿いの宿場を除けば中世の街道沿いや大集落などで使用されていた名称である可能性が高い。本「宿」地区や伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡の所在する西原地区は鎌倉街道中道の太田新井、野田、粂原、須賀、下高野というルートに別ルートの春日部市の御厩瀬渡から百間東の西光院さらには須賀へ到ると伝えられる鎌倉街道の沿線付近に位置することや太田新井から金谷原・西原・宿、東から西・前原・西原・宿、姫宮から西原・宿に到る中世百間郷内におけるすべての主要道が集まる場所であったため城館や宿が形成されたものと推察される。

    小字西原色分け村別分布図

    小字西原色分け村別分布図
    青色=百間西原組、赤色=百間村、ピンク=百間中島村、黄色=百間東村、緑色=百間金谷原組、紫=百間中村、黒=道路、水色=水路

    村別分布図と堀の推定範囲

    小字西原 村別分布図と堀の推定範囲

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