ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

あしあと

    02 考古学的手法による調査

    • [初版公開日:]
    • [更新日:]
    • ID:2379

    伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡で発掘調査が初めて実施されたのは平成12年度の県道拡幅によってである。その後、平成12年から15年にかけて、学術調査、町道建設、墓地造成、個人住宅建設等で多数の遺構や遺物が発掘されている。
    県道拡幅に伴う調査として、(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団により平成12年6月から7月にかけて発掘調査を実施した。また、平成13年3月の宮代町教育委員会の調査、平成13年11月から12月にかけての宮代町遺跡調査会による調査、平成14年7月、15年度の宮代町教育委員会の調査などで次第にその遺跡の性格が明らかになってきた。

    (1)平成12年度(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団の調査

    <検出された遺構>
    掘立柱建物跡2棟、竪穴状遺構3基、堀跡1条、溝跡6条、井戸跡14基、土坑10基、柱穴多数
    堀は地籍図で確認できる細長い区画より検出された。
    第8号溝は平成12年度の宮代町教育委員会、平成13年度の宮代町調査会の調査で出土した溝の方角とは若干異をなしており、それより古い段階のものであろうか。堀跡より南側でも多数の遺構が確認されていることが平成13年度の宮代町遺跡調査会の調査とは違う傾向であるといえる。第1号掘立柱建物跡は桁行6間、梁行2軒以上の総柱の建物で柱当は方形を呈していた。堀跡は大きく4時期の変遷が伺えたという。宮代町文化財調査報告書第9集「宮代町の中世遺物」より

    (2)平成12年度宮代町教育委員会の調査

    <検出された遺構>
    竪穴状遺構2基、堀跡3条、溝跡4条、土坑28基(内11基が井戸跡)、柱穴多数
    3条の堀が検出された。いずれも真北より10度ほど東側へずれていることから、コの字形を呈する区画なのかもしれない。ピット群が9基確認され、第4号ピット群は掘立柱建物跡、第5・6号ピット群は堀に伴う柵列であることが確認された。第1号溝西側には土塁があったことも確認された。第7号溝は、敷地の増大に伴い人為的に埋まられたことが確認できる。この他、柱穴の一部も人為的に埋められたことが分かった。曲輪内は西側に意識がある縄張りとも確認されている。宮代町文化財調査報告書第11集「国納丸屋遺跡・中寺遺跡・伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡」参照。

    <出土した遺物>
    常滑甕、瀬戸縁釉皿・天目茶碗・擂鉢、在地系内耳土鍋・擂鉢、明景徳鎮産染付

    (3)平成13年度宮代町遺跡調査会の調査

    <検出された遺構>
    竪穴状遺構4基、堀跡4条、溝跡6条、井戸跡7基、土坑6基、柱穴多数
    4条の堀が検出された。いずれも真北より15度ほど東側へずれている。第6号溝は事業団1号溝と対応すると思われ、喰違いの虎口を形成すると推定される。地籍図にもその傾向がうかがわれる。また、第6号溝より南にはほとんど遺構が存在しないことから城館の区画をあらわすものと推定される。第2・5号溝はL字をなし、堀底から志野皿が出土したことから大窯4期(16世紀後半から17世紀初頭)には機能していた可能性が強い。第2号溝からは文亀元年(1501)と推定される板碑が出土していることから本溝が機能していた時代はこれより後である可能性が高い。第4号溝は覆土の土層観察から第2号溝より新しい遺構であることが確認された。第8号溝は第6号溝より新しい可能性が高い。第2・4・5・6・7号溝(堀)底からは粘土層が検出されたため、耐水していた可能性が高い。第9号溝底部からは砂層が検出されたことから流水していたことが確認された。第2号溝の最上層から中層にかけては、本溝の西側に存在していたと推定される土塁を崩したと推定される層も確認されている。この盛土からは18c代の伊万里が出土したことからこの時代以降に崩された可能性が高い。本調査地点は旧来の道の拡幅のため調査を実施したが調査区の主軸とほぼ同じ角度で堀が検出されたことからこの旧道は堀の区画と何らかの関係があると推定される。

    <出土した遺物>
    明竜泉窯青磁、明しょう州窯青磁、常滑甕、瀬戸擂鉢・天目茶碗・擂鉢・志野皿、肥前唐津産陶器、志戸呂産擂鉢、伊万里産磁器、青銅製鏡、板碑、石臼、在地系内耳土鍋・擂鉢など多数出土した。

    (4)平成14年度宮代町教育委員会の調査

    <検出された遺構>
    竪穴状遺構が2軒、土坑13基、井戸1基、ピット8基が検出された。覆土の状況から第1号竪穴状遺構と
    第1号井戸は最も新しい遺構と推定されている。これらからは鋳造関係の遺物が出土しておりそれらに伴う遺構と推定される。宮代町文化財調査報告書第11集「国納丸屋遺跡・中寺遺跡・伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡」参照。

    (5)発掘調査で出土した遺構や遺物の分析

    これらの発掘調査から出土した遺物の分析によると12世紀後半から遺物が確認でき、13世紀後半から14世紀後半で若干の遺物の増加が確認できる。これは青林寺所蔵の板碑や宿・源太山遺跡出土の板碑を生前供養として建立した在地領主の存在が伺われる。
    遺物出土量の第1のピークといえるのは15世紀後半から16世紀前半である。これは百間郷の領主の存在を想定でき、在地領主の居館か城郭と考えられる。その後、16世紀第4四半期から17世紀第1四半期に遺物が集中し第2ピークを迎える。その後、17世紀第2四半期で若干減少し、17世紀第3四半期で第3のピークを向え、17世紀第4四半期で激減することが伺える。

    掘立柱建物跡の写真

    平成12年度埼玉県埋蔵文化財調査事業団調査
    掘立柱建物跡

    第2号堀の写真

    平成13年度宮代町遺跡調査会調査
    第2号堀

    堀と柱穴列の写真

    平成12年度宮代町教育委員会調査
    堀と柱穴列

    堀と橋の柱穴の写真

    平成13年度宮代町教育委員会調査
    堀と橋の柱穴

    銅鏡の写真

    平成13年度宮代町遺跡調査会調査
    銅鏡

    志野皿(「十」朱漆)の写真

    平成13年度宮代町遺跡調査会調査
    志野皿(「十」朱漆)

    刀の縁の写真

    平成14年度宮代町教育委員会調査
    刀の縁

    堀の推定範囲

    百間陣屋 堀の推定範囲(発掘調査と地籍図から)

    出土遺物のグラフの画像

    伝承旗本服部氏屋敷跡出土遺物のグラフ

    中近世遺物年代別グラフ(2000年度~2002年度)

    伝承旗本服部氏屋敷跡遺跡出土遺物年代別グラフ

    お問い合わせ

    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

    電話: 0480-34-8882

    ファックス: 0480-32-5601

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム