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あしあと

    明治、大正、昭和

    • [公開日:]
    • [更新日:]
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    明治初年の宮代町の景観

    明治初年の景観復元図
    この図は、明治初年の景観復元図です。集落は、台地上や自然堤防上に比較的まとまって立地しています。畑地は、集落の周りに一面に存在し、台地上や自然堤防上などやや高めの場所に分布します。水田は、かつて沼であったところや流路跡などの一部にしか分布していません。これらを見てもこの当時の人々の生活は、水田より畑に依存する割合が高かったことがうかがえます。山林や茅場などは、下の谷(字中)や第六天・山崎(字山崎)、平島(字逆井)、小高岩(大字西粂原)など町域の縁辺部や、かつて沼であった所の周囲に点在していました。

    江戸時代から明治初頭の村々の分布状況

    村々の分布状況の画像

    江戸時代末期、宮代町には支配の関係から百間村(百間本村・百間西原組・百間金谷原組)、百間東村、百間中(西)村、百間中島村、蓮谷村、須賀村、国納村、和戸村、西粂原村、東粂原村に分かれていました。また、江戸時代中頃以降開発された新田も字笠原(笠原沼新田)、字逆井(逆井新田・百間四ケ村請新田)、字中(下の谷新田)、古利根川の流作場(午高入新田)などに分布していました。百間各村や国納村・和戸村は、江戸時代前半に分村した経過から「あたかも碁石を散布したごとく」と『武蔵国郡村誌』にあるように、村々の土地が入り混じっていました。

    その江戸時代から続く村も、旧須賀村地区では、現在も大字に受け継がれていますが、旧百間村地区は前述した理由で昭和5年に地番の整理をし、7つの大字を廃止して12字とし、旧村名は姿を消しました。明治維新によって新政府が発足し、明治4年には埼玉県が成立しました。町域の村々は明治7年(1874)、新田が各村(本村)に、さらに明治22年、百間村、須賀村の2村に統合されました。

    一方、明治5年(1872)に学制が発布され、百間に進修学校、粂原に西條学校、和戸に和戸学校、道仏に中島学校がいずれも寺院を校舎として開設されました。また、明治11年に県内最初のキリスト教会が和戸に創立されました。明治32年には、東武鉄道北千住・久喜間が開通し、杉戸駅(現東武動物公園駅)、和戸駅が、開設されました。その後、昭和30年7月、百間村と須賀村が合併、宮代町が誕生しました。

    戸長制度

    戸長制度は、明治4年(1871)戸籍法の制定により、区ごとに戸籍事務を行う役職として戸長が置かれたのが始まりです。明治5年、政府はそれまでの戸籍法をもとにした区を改革し、行政区とするための太政官布告を発しました。庄屋・名主を廃止して、戸籍法によって設けられていた戸長、副戸長が、戸籍事務だけでなく民政一般の事務を扱うようになりました。

    和戸教会の成立

    明治6年、小島九右衛門は横浜へ行き、キリスト教の信仰に目覚めました。九右衛門は和戸村の名主を勤めていた家でもあったのです。明治11年10月26日、小島九右衛門・小菅幸之助を中心に埼玉県最初のキリスト教会である和戸教会が設立されました。

    小島九右衛門

    和戸教会

    鉄道の開通

    明治32年(1899)、東武鉄道の北千住・久喜間、40.1kmが開通しました。当時は、英国製の蒸気機関車に引かれた列車が1日7往復しました。開通に伴い、杉戸駅(現東武動物公園駅)が開設されました。明治32年12月には和戸駅も開設されました。和戸駅は初め御成道沿いにありましたが、大正時代に現在の所に移転しました。また、姫宮駅は昭和2年に開設されました。

    かつての杉戸駅(東武動物公園駅)

    かつての姫宮駅

    東武鉄道時刻表

    和戸駅拡張費用支払明細帳

    学校と教育

    明治政府は富国強兵を担う国民を育成するため、学制を敷きました。各地に学校が建設され、宮代町域でも4つの学校が誕生しました。進修学校(現在の百間小学校)、西条学校(現在の須賀小学校)、和戸学校、中島学校です。和戸学校は当時廃寺であった観音堂に明治7年に開校しましたが、のち久米原学校(西条学校)と合併しました。中島学校は道仏の医王院を校舎に明治9年に開校しましたが、のち百間学校(進修学校)と合併しました。進修学校は明治6年に西光院で開校しました。明治8年、宝生院に移転し百間学校となりました。西条学校は当時廃寺であった大聖院を校舎に明治6年開校しました。明治10年久米原学校と改称しました。久米原学校は大正5年、現在の校地に移転し須賀小学校と改称されました。百間学校は明治43年に現在の校地に移転しました。

    久米原学校設立願

    かつての須賀小学校校舎

    百間小学校配置図

    明治44年に建設された百間小学校進修館

    百間村・須賀村の誕生

    百間中村、百間中島村、百間村、百間西原組、百間金谷原組、蓮谷村の6ケ村は、明治12年戸長役場を統合し、百間中村の小島弥三郎が戸長となりました。その後、明治17年には連合戸長役場が設置され、百間6ケ村と百間東村は連合し百間中村連合戸長役場が設置されました。そして、百間7ケ村は明治22年正式に合併し百間村が誕生しました。役場は西原の青林寺に置かれました。その後、大正14年12月に百間小学校の南側に役場を移転し新庁舎が造られました。

    東粂原村、西粂原村、爪田谷村は、明治12年戸長役場を統合しました。国納村・和戸村も戸長役場を統合しました。須賀村は単独でいましたが、明治17年連合戸長役場が設置され、これら6ケ村は、東粂原連合戸長役場を設置し、役場を宝光寺に置きました。その後、明治22年、爪田谷村を除く5ケ村は正式に合併し須賀村となりました。その後、明治40年、大字国納字丸屋に新庁舎を建設し移転しましたが、人家から遠いことなどを理由に、大正3年現在の和戸公民館の場所へ新庁舎を建設し移転しました。

    西原地区に新設された百間村役場

    現在の和戸公民館に新設された須賀村役場

    宮代町の誕生

    宮代町は、昭和30年7月20日、百間村、須賀村の2村が合併し誕生しました。町名は、百間村の総鎮守である姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」をとって名付けられました。合併当時は、人口10,463人、戸数1,833戸を数えました。合併に際し作成された宮代町新町建設計画には、新町建設に向けての基本方針などさまざまな計画が記され、新しい町づくりへの期待と意欲がうかがわれます。

    宮代町の名前の由来となった姫宮神社

    宮代町の名前の由来となった身代神社

    合併当時の宮代町役場(旧百間村役場)

    昭和35年に新設された宮代町役場

    宮代町の概況(合併当時地区長あてに配られたもの)

    お問い合わせ

    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

    電話: 0480-34-8882

    ファックス: 0480-32-5601

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