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あしあと

    旧石器時代、縄文時代

    • [初版公開日:]
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    最古の住人たち

    宮代町に初めて人々が移り住んだのは、寒冷な氷河期であったおよそ2万年前のことです。平均気温が今より約5~6度も低く、あたりはマツやモミ、ナラなどの森やヨモギやカヤツリグサなどの草地、また、その周囲の谷には沼や川などの低湿地が広がっていました。森や草原にはナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型の動物が、また水辺にはカモなどの水鳥たちが生息していました。

    人々は、木や石そして骨や角などを使って道具を作り、動物を捕えたり、植物を採りながら生活していたと考えられています。そのような、宮代最古の住人たちの暮らしぶりを伝える遺跡は、前原遺跡、逆井遺跡など数か所で確認され、人々の用いた石器が多数発見されています。

    ガラス質黒色安山岩の動き

    前原遺跡第1号ブロック調査風景

    逆井遺跡第1号ブロック細石刃核

    逆井遺跡第1号ブロック細石刃

    森と海に生きる

    縄文時代の遺跡

    今からおよそ1万2千年前、氷河期の終わりとともに縄文時代が始まりました。気温の温暖化によって、森にはコナラやクヌギ、クリ、クルミなどの広葉樹が生い茂り、イノシシやシカ、ウサギなどの中小の動物が生息するようになりました。

    一方、低地には海水が進入し、しだいに遠浅の内海へと変わり、6千年前に最も海面が上昇しました。このような自然環境の変化にともない縄文人は、弓矢という飛び道具を使い、シカやイノシシを捕え、土器を発明し今まで食べられなかった食物も口にすることができるようになりました。人々は森を切り開き、竪穴住居を建てて住み、四季折々の「森の幸」を中心として、大いなる海とともに生活していたと考えられています。

    石偶(ビーナス)

    前原遺跡で、頭・手・足が横の幾本かの細い線刻によって表わされている石偶(ビーナス)が出土しました。これは土偶と同様、呪術的・宗教的な目的で作られたものと考えられており、当時の信仰の様子を知る上でも貴重な資料です。この他、逆井遺跡や山崎遺跡、国納丸屋遺跡、金原遺跡、地蔵院遺跡、道仏北遺跡などでも多くの縄文時代早期中葉から後半の住居跡が確認されています。
    石偶

    石の道具

    石器には、植物の根などを掘ったり、木を加工する道具である各種の石斧や、調理のための道具である石皿・磨石、狩の道具であるヤジリ・石槍などがあります。前原遺跡では、約8千年前の磨製石斧、打製石斧、錐、石皿、磨石、石錘、スタンプ形石器といったこの時期の特徴的な石器がまとまって出土しました。また、地蔵院遺跡などでも石斧やヤジリ、石皿などが多数発掘されています。
    石の道具2

    縄文時代の装飾品

    縄文時代の遺跡からは、耳飾り(イヤリング)やペンダント、櫛、ヘアピンなどさまざまな装飾品が出土しています。おしゃれな縄文人の姿が思い浮かびますね。町内でも逆井遺跡や金原遺跡で、耳飾りやペンダントが出土しています。

    耳飾の使用方法

    縄文時代早期末葉から前期の耳飾

    縄文時代中期の耳栓

    有孔球状土製品

    縄文土器

    縄文土器は、粘土をこね、縄や貝がら、棒・竹などで装飾を施した素焼の容器です。およそ1万2千年前に初めて作られ、弥生時代までのおよそ1万年の間作り続けられました。土器の使用によって、「焼く」・「蒸す」という調理法に加え、「煮る」という新たな調理法が加わり、食卓のメニューも大幅に広がったことがうかがわれます。土器は、粘土をこね自由に作れることから、長い間いろいろな形や文様の施されたものが作られました。また、時期や地域、生活の変化によってもさまざまな形や文様が生まれています。

    約8千年前の土器は、軸に細い縄を巻き付け転がした撚糸文が施されます。約7千年前の土器は、粘土に植物繊維がたくさん含まれるようになりますが、約5千年前になると植物繊維が含まれる土器は姿を消します。約4千5百年前になると比較的厚手で、立体的な華やかな模様の土器が出現します。約3千5百年前になると比較的薄手で硬質の土器が出現し、模様には磨消縄文が多用されます。宮代町で一番多く出土する土器は、ちょうどその頃のものです。

    縄文時代前期・中期の土器
    縄文時代後期の土器

    潮騒が聞こえるムラ

    今からおよそ6千年前、気候の温暖化もピークに達しました。このため海面は上昇し、しだいに低地に海水が進入し、関東地方にも「奥東京湾」と呼ばれる遠浅の内海が出現しました。海には、カキ、ハマグリ、ハイガイなどの貝類やスズキ、クロダイなどの魚がたくさん生息していました。きっとそのような「海の幸」が縄文人たちの食卓を賑わしたことでしょう。彼らが食べた貝や魚は、家の近くに捨てられ、貝塚として現代に残されています。海は、縄文人の暮しに豊かな恵みをもたらしました。

    汽水域で生息するヤマトシジミ(西光院遺跡)

    土器片錘の使用方法(金原遺跡出土土器片錘)

    発掘された先土器・縄文時代の遺跡

    前原遺跡

    前原遺跡では、先土器時代の石器製作場跡や町内でも最も古い縄文時代の集落が発見されました。縄文時代早期(約8千年前)の竪穴式の住居跡7軒が確認されています。いずれも長方形で一辺約3~4メートル前後の小型のものです。野外には、調理の跡と思われる集石遺構や地面を浅く掘っただけの炉もありました。 また、石斧やヤジリや石の剥片が集中する所などもあり、当時すでに「調理する所」「道具を作る所」などが、家々を囲むように存在し、ムラが形成されていた事が明らかになりました。なお、最近の発掘例では、ムラの周辺で植物の栽培が行われていたことも指摘されています。

    前原遺跡微隆起線文土器

    前原遺跡 5・6号住居跡

    前原遺跡全測図

    前原遺跡 撚糸文土器

    地蔵院遺跡

    遺跡は「西原自然の森」地内を中心として広がっており、昭和61年度から5か所の発掘調査が行われました。発見された遺構・遺物は縄文時代早期から後期、および古墳時代前半のものです。ことに縄文時代早期(約7千年前)は、住居跡4軒を中心に、野外で火を焚いた炉穴などが200基余りと、土器や石器などが多数発掘されました。このほか、縄文時代前期の住居跡5軒、中期の住居跡7軒も発掘され、各時期にわたって広範囲にムラ(集落)が営まれていたことが明らかになりました。

    縄文時代前期の住居跡

    縄文時代中期の住居跡

    縄文時代後期の土坑

    縄文時代中期の埋設土器

    山崎山遺跡

    今までに計5回の調査が行われ、先土器時代、そして縄文時代早期から後期にかけての遺物、古墳時代前期の集落や鍛冶工房跡が出土しています。ことに、縄文時代後期の住居跡が密集しており、大きな集落が形成されていたものと考えられます。
    山崎山遺跡

    山崎南遺跡

    山崎山遺跡の東側に位置し、谷を挟んで北側には県選定重要遺跡山崎遺跡があります。現在までに4回の調査が行われ、縄文時代後期の住居跡5軒が確認されています。また、平成6年度の調査の際、石製の縄文時代のペンダントも出土しています。
    山崎南遺跡

    金原遺跡

    宮代町の南端に位置します。平成8年から11年にかけて、埼玉国体アーチェリー会場予定地である仮称金原運動公園(現在のはらっぱーく宮代)建設に伴い約4万平米が調査されました。調査の結果、旧石器時代の石器ブロック11基、礫群8基、縄文時代の住居跡27軒、炉穴33基、土坑405基、溝71条が発掘されています。特に、縄文時代後期称名寺式期については、縄文ムラ全体が発掘されたことにより、当時のムラの状況が非常にわかるようになりました。西側の谷に面し住居跡が弧状に配置されその周囲に貯蔵穴などの土坑がつくられたようです。住居跡の背後には祭祀を行ったり広場として使用された方形柱穴列がありました。

    金原遺跡の縄文ムラ復元図

    金原遺跡航空写真(西側地点)

    第23号住居跡(堀之内式期)

    第1号方形柱穴列(称名寺式期)

    第2号住居跡(称名寺式期)
    第6号住居跡(条痕文期)

    第3号住居跡(称名寺式期)

    第7号住居跡(称名寺式期)

    第9号住居跡(条痕文期)

    お問い合わせ

    宮代町役場教育推進課文化財保護担当(郷土資料館)

    電話: 0480-34-8882

    ファックス: 0480-32-5601

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