ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

あしあと

    「農のあるまちづくり」について

    • [初版公開日:]
    • [更新日:]
    • ID:487

     以下については、宮代町において進めている「農のあるまちづくり」についての考え方をまとめたものです。農林水産省農業振興研修(1997年7月25日)において宮代町長(榊原一雄町長 当時)が講演したものを掲載しています。

    最初に

     こんにちは。まず、お話しにはいらさせていただく前に、最初に、本日、講演する機会を与えてくださいました、主催者、関係者の皆さんに心から厚くお礼申し上げるとともに、これからお話し申し上げることは、決して地域農業政策や土地利用計画についての先進的な取り組み事例ではない、ということをお断わりしておきたいと思います。

     今日の話しは 「かつては農業によって町が成り立ち、現在はベッドタウンとなった首都圏近郊の小さな町」がまちづくりを進めるにあたって「失われつつある農業」や「農」をどう再生しようとしているか、また農のもつ効果、役割、つまり農という資源を活用しての商工業の振興、福祉や教育、環境などの問題の解決策を探って試行錯誤している苦労話しだと言うことです。

     これから、順に話しを進めてまいりたいと思いますが、もしかしたら、ちょっと「より道」した話しになるかも知れません。というのは「宮代町」で「農のあるまちづくり」を進める理由というのがこの「寄り道」の中にひそんでいるからなのです。

    宮代町について

     まず、ご理解をいただくために少しやお話しをさせていただきます。宮代町といっても、おそらくここにお集りの大体の皆さんは「どこにあるの」というのが率直な感想だと思います。特に、今日は全国からお集りですので、そう思われているだろうと思います。埼玉県には92の市町村がありますが、どこも似たりよったりで、特に人口10万人以下の町となりますと、周辺の知名度の高い市にまぎれて、案内においても、非常に存在感が薄いのも事実であります。

     こういういい方はあまり好きではないのですが、「宮代町は春日部市」の北に隣接しています。また別な言い方をすれば「東北自動車道のインターチェンジのある久喜市」の南に接しています。この2つの市にはさまれています。今日、お集まりの皆さんの中でこの春日部市、久喜市を知らない人のためにつけ加えると、埼玉県東部、浅草から東武鉄道に乗って北に向かって、6つ目の準急の駅です。大体、都心まで40分です。

     あるいは、こういう言い方ができるかも知れません。関東地方の人なら多少ご存じかも知れませんが「東武動物公園」のある町。「東武動物公園駅」がある町と・・・あるいは「日本工業大学」がある町と・・・

     随分、宮代町についての説明が長くて申し訳ありません。しかし、このことが「農のあるまちづくり」を進めることをご理解いただくための重要なポイントであります。

     宮代町もご多分にもれず昭和の大合併により、昭和30年に2つの村が合併して宮代町が誕生した時の人口は約10000人でした。宮代町は南北8キロ、東西2キロと南北に細長く、その細長い地形に沿って東武鉄道が走り、3つの駅が北・南・中央にそれぞれあり、それぞれの市街地の中心となっています。首都圏40キロ圏内に位置することから昭和40年代に大規模に住宅地が造成されました。しかし高層の住宅用地はかたくなに拒み続け、一戸建あるいは二階建のテラスハウスの持ち家住宅に限って認め、開発抑制のまちづくり政策をとった経緯があります。現在の人口は約36000人です。

     商業のまちでも、工業のまちでもない、兼業農家と、圧倒的に都心に通勤するサラリーマン世帯が多いまちであります。いいかたをかえれば、現在の宮代町について説明するのは非常に簡単で、首都圏のどこにでもある町の類型であるといってもいいのかも知れません。宮代町は先程のべた5つの団地と旧来の農村、そこに住む人々によって構成されている町なのであります。首都圏にある町の類型と述べましたが、おおよそ首都圏にある町は、町としての個性がなく、東京に依存し、住んでいる人々も郷土意識が低く、といった類型があります。 もちろん全ての町がそうだ、とは申しません。しかし、多かれ少なかれ、似たような傾向はあると思います。

    ふるさととしての宮代町

     しかしながら宮代町における最初の団地造成から20年がたち、最後の団地造成から10年がたった現在、首都圏にある似たり寄ったりの町から変わりたいと思っている町民が増えてきました。団地内の町並も当初は造成したばかりで、殺風景なものでしたが、今では家々の垣根や庭の木、公園の緑も成長し、周辺の農村集落の屋敷林と一体化し、宮代町の新しい風景になりつつあります。団地に住んでいる皆さんにはこうした町並を20年かかって作り上げた、という自負や誇りがあるようです。

     20年の歳月がかえたのは景観だけではありません。当然、団地内でのコミュニティも形成されていますし、公民館やコミュニティセンター、スポーツ活動などにより、旧来から宮代町に住んでいる町民との交流もごく当り前になっています。「新住民」という言葉は宮代町では死語に近いものがあります。少なくとも宮代町を「ふるさと」あるいは「第二のふるさと」と感じているはずです。

     宮代町は昭和30年代~50年代の経済成長期というか開発優先のまちづくりの時代にも、また今回のバブル経済期にもあえて意図的に「人口増加策」をとりませんでした。このことが先の住民意識調査の「宮代町は住みやすい」と考えている町民が4人中3人という数字になってあらわれている、と考えています。

     このバブル経済期に宮代町が行なってきたのは、「やみくもに人口を増加させる」ということではなく、町民が主体となって活動する場の整備、でした。図書館、総合運動公園、郷土資料館など「町民が自ら考え、行動するための環境」を整備してきました。

     わたしはこの考えは間違っていなかったと考えています。このことが、先ほど述べました「住みやすいと感じている」数値になってきているのだと考えています。

      しかし、「単なる首都圏近郊の町から自分のふるさとへ」と町民の意識は変ってきても、宮代町は相変わらず個性のない、中途半端な、他人に説明するにもその地理的位置から説明しなければならない町であることに変わりはありません。さらに一歩すすんだ「まちづくり」を行なうためには、もっと深く、全ての町民に「宮代町」の個性を認識し、かかわってもらえたらと、私は思いました。つまり、どこにでも「らしさ」「個性」はそなわっています。要はそれを見つける地域の人たちの目が大切で、我々自身が気づくことが地域らしさや、地域の個性を盛り上げ魅力を高めるものと思います。

      過去、あるいは現在もその傾向がないとはいえませんが、町民が町政についてものを言うとき決まったパターンがありました。それは「宮代町に広い大きな道路を、大きなショッピングセンターを、工業団地を誘致し町の活性化を・・・はやく人口を増やして市になればいい」と農村・団地を問わず同じ様な声が聞こえてきました。これはある種類、自虐的なものの言い方で「宮代町は田んぼばっかりで道は狭いし、繁華街はないし」とも言ったりします。

      町民には心のなかにジレンマがあるのではと思います。宮代町に愛着を持てば持つほど、こんなものの言い方を決まってするのです。しかし広い道路や繁華街や工業団地は、それはそれで大いに結構なのですが、それが「宮代町らしい」かどうかについては誰も考えようとしない傾向があります。

     随分、遠回りをしていますが、もう少し遠回りさせてください。

     私は「田んぼばかりで他に何もない」と考えずに「豊かな自然環境に恵まれている」という発想を持ち堂々と宮代町を誇ればいいじゃないか、そうまちづくりを進めていくべきではないか、と考えています。

     まちづくりは自らの個性を掘り起こし、価値があるかどうか客観的に判断し、資源を活用する方策を考え、これをPRしていく活動であります。これによって町民にっても誇りある地域となり、世界的にも評価されるようになる。足元を見つめなおすことに力を入れるべきであります。

     私たちは「東京都民」でも「春日部市民」でも「久喜市民」でもない「宮代町民」だという意識が持てなかったら宮代町は永遠にどこかの衛星国のようになってしいますし、常に愚痴をこぼし、大きな町に憧れ、まちづくりに消極的で、というように、全然前向きではありませんし「新しい何か」をしようという気にはならないだろう、と思います。

    宮代町の風土

     しかし、こうした傾向は変わりつつあると私は実感してています。

     静かで四季の変化を感じとることができ、風にそよぐ木の葉の音をききとれる町、それが良いのだ。という皆さんが増えてきているのです。

     それは右肩あがりの経済成長がバブル経済の崩壊とともにストップしたことも一因でしょうし、地球規模での環境問題がクローズアップされている、ということも追い風になっているとは思います。

    少なくとも町民の皆さんは宮代町が「ミニ東京」になることを望んではいないのだということがハッキリしてきたのです。

     現に、昨年度実施した住民意識調査では、宮代にずっと住みたいと答えた人は82.3%にも昇り、また、土地利用についても、平成元年の調査では約20%の人が開発抑制志向だったのに対し、昨年実施した調査では45.3%と倍以上に伸びています。

    風土というものについて考えてみます。ここでいう風土とは気候、地形、自然や歴史あるいは生活文化など総合的なものとします。軽井沢には「雑木林」を風土としてきた歴史があり、柳川には「堀」を風土としてきた歴史があり、銚子は「漁港」をというように、まちづくりを行なうにあたって風土を抜きに・・・ということまず考えられません。

     例えば、煉瓦造りの洋館や伝統的な蔵造りは景観的にもすばらしく、見た目も素晴しいのですが、そのような歴史のない自治体が唐突にそのようなものを作ったとしてもそれはマネでしかなく、コッケイですらあります。どこかの遊園地とかテーマパークならまだしも、です。

     宮代町の風土に合ったまちづくり、これが「農のあるまちづくり」の出発点です。

     風土というもので考えた場合、宮代町において誰もが納得し、同意できるものが「水田や屋敷林」などによってもたらされる「農」の恵みであったのです。

    宮代のことは宮代で

     風土に根差したまちづくりを行なう時に、その手法として重要なのは「あくまで主体となるのは町民」であるということです。まちをつくる、まちの資源や価値を探す、これらの活動の主役はあくまでも町民であります。行政はそれをバックアップするにすぎない。地域の資源を見抜く賢い目を持った町民がよりよいまちをつくります。市民対行政といいう対立の構図がある限り、まちは発展しません。行政と市民が共通の目的を持って取り組めば大きな成果を上げられるのです。

     私はまちづくりは町民と行政とのパートナーシップだと考えています。つまり共同で成し遂げるものであろうかと考えています。このパートナーシップには信頼関係が必要です。仲の良い友人同士のように時には議論を交し、時には共同で物を考え、そうやって何かを成し遂げて行くときに、底辺にある「信頼」関係で結ばれているようにです。

     時に「役場が勝手にやった」などという苦言をいただくことがあり、またあるいは「どうせ、言ったって駄目なんだろうけど」と町民の皆さんに言われることがありますが、私はその時点で、「信頼関係」が築かれていない、という歯がゆい思いをすることがあります。

     「市民参加」というと聞こえはいいのですが、ある一時だけ「市民の意見」を聞く、というのは本来的な市民参加ではないと考えています。それは過去の「ご意見拝聴型」の行政にしかすぎません。私が考えている「町民参加」とは建て前で町民の意見を聞き、それを行政が仕事を進めるにあたっての「錦の見旗」にする。というものではありません。今はこうした参加そのものより、参加方法をいかに深めていくかが問題であれります。

     もしかしたら、一つのことを成し遂げるのに今までの手法よりも時間がかかるかも知れませんが、その時間の間にまちづくりの情報を提供し、行政と町民との距離を「信頼」という媒体により縮め、共に何かを成し遂げたという達成感を得ることが本来的な意味での「市民参加」であろうと思います。それは「そこに住む人々が自らの住む地域のことを考え、自ら行動する」という地域への愛着がバックボーンにあるべきです。それがパートナーシップなのです。

    町民との共同作業 Made in 宮代

    トイレシンポジウムの会議風景写真

     たとえば「たかが公衆トイレ建設」に2年間の歳月をかけた。というのは宮代町の誇りです。いきなりトイレの話しで申し訳ありません。

     実は今年の四月に「メイドイン宮代トイレ」として、町民参加により公衆トイレを建設したのですが、建物のデザインを公募して、身体障害者、高齢者、妊婦とともにトイレの使い勝手について議論し、その結果をもとに「トイレシンポジウム」を開催し、建設したものです。

     意見を提言してくれたのは町長である私でも役人でもなくて、それは「町民の皆さん」であったのです。「シンポジウム」や意見提言を受けて建設し、事実今回建設したトイレのどこにも「役人の意思」というものは入っていません。サイン表示にまで徹頭徹尾、町民の皆さんに考えていただいたわけです。

     結果、新聞、テレビ、建築専門誌で、この「宮代のトイレ」が好意的に扱われているという事実からもわたしたちの「まちづくりは間違っていなかった」という思いでいるわけです。

    トイレシンポジウムの会議風景の写真 

     つまりパートナーシップとはこのようなものだと考えてます。「役人が市民の意思とは関係のない論理」で物事を進めていく時、市民には「不信感」しか残りません。「さあ作ってやったぞ」的な発想のどこにまちづくりの「主人公」であるべきはずの「市民」がいるというのでしょうか。

     そういった場合まちづくりの主人公は「県や国の補助金システム」だったり、「役人の思い込み」だったりします。少なくとも人間の顔は見えてきません。

     例えば、福祉や環境、子どもたちを取り巻く環境など「今日的」行政課題のほとんどは、こういうスタンスなしには成し遂げられません。「役場に言われたからゴミを分別する」のではありませんし、「役所でそう言われたから車椅子を押してあげた」とか言う人はいないはずです。

     これらのことは「自らが自分の住む地域や町」とどう作り上げたいかという意思にかかわってくるのです。

     「誰かに言われたから」という論理で物事をすすめるべきではないでしょう。特に、地方分権の受け皿としての市町村における市民自治について理解されている方には、私の言うことをわかっていただけると思いますが、まちづくりは「自分の利益を考えるのと同じように他人の利益や全体の福祉のことを考え」なければならないと思います。特に、環境や福祉などは「自分さえよければいい」というものではありません。いつしか自分に跳ねかえってくるものなのです。

    トイレシンポジウムにて町長が児童へ表彰状を授与している写真

     町や他人に何かをしてもらおうということではなく、町のために少しだけ手間暇を出してくれる人が一人でも多くなれば、それだけよい町、よい地域になります。

    今、宮代町ではこの行政と町民とのパートナーシップが良い形で築かれつつあります。

    愛着をもてる風土としての「農」

     「農のあるまちづくり」こそはmade in宮代によるまちづくりが目指す姿であると思います。「宮代町の宮代町による宮代町のための」まちづくりなのです。

     ここで「農のあるまちづくり」のバックボーンとなる考えについて整理してみました。

     第1に宮代町で現在すすめている「農のあるまちづくり」が宮代という風土でまちづくりをすするめにあたって不可欠なものである、という前提から始めなければなりません。つまり端的に言えば行政が計画を策定し、実施するにあたっては宮代の風土から出発しなければならないということです。

     日本全国どの土地においても山や河、森など、歴史的に人々が生活を営なみ、日々の暮らしの中で欠かせない存在であるはずの自然環境ぬきにして人々の現在の生活や将来について計画を立て、それをすすめていくことはできません。先程述べたように、軽井沢における「雑木林」や柳川の「堀」のようにです。宮代町においては水田や用水、屋敷林などを風景ばかりか生活の一部としてきた歴史があり、この心の拠り所である風土を抜きにしてまちづくりは行えないのです。

     これらの風土を将来に渡って維持するためには、従来の農業施策に限界があることは明らかです。私たちは「新しい農業の姿」を考えていく必要があります。

     さて第2に昭和40年代の宅地開発により生まれた「団地」と呼ばれる住宅地に住む人々のライフスタイルについても考えなければなりません。おおよそは都心に通勤するサラリーマン世帯です。これらの人々の割合は宮代町全体からすると5割以上になります。これらの人々は農業を生活の営みとしてきた歴史がありません。そういった意味からすると宮代町における「第2世代」とも言えます。

     この第2世代の人々が宮代の自然にどのような感情を抱いているかについては先に実施した住民意識調査に明らかですが、定住指向が強く、開発指向よりも自然環境重視型であり、宮代町の風土について好ましいイメージを持っていることが分かります。住民意識調査で「現在もしくは将来市民農園で菜園を行いたいか」という質問に体して20%が「行っている、行いたい」という回答をしています。確かに現在「団地周辺」に必らずといっていいほど「貸農園」が存在している現状を考えると「農」の空間は農業者が何かを営むというだけではなく、都市市民にとっても、ライフスタイルの一部となっているということが言えます。

    親子や児童たちが田植えをしている写真

    「農」の空間は農家だけのもの?

     このような町民の自然環境に対する意識の高まりの一方、町内の緑の面積を見ると、宮代町の面積1595ha中、約50%が田、畑、屋敷林等から成っており、これらが町に緑の色彩を与えていことになります。ただし、この恵まれた緑地の大部分は将来に渡って保証されているものではありません。それは、町全体戸数のうち、わずか6%の農家の方々が先祖代々農業を続けながら守ってきた農地と山林だからです。したがって宮代町の恵まれた緑が今後どうなるかは、そのほとんどが町内の農家と農業のゆくえにかかっていると言っても過言ではありません。

     しかし、今後この農業を取り巻く環境は内外ともにたいへん厳しいものがあります。平成6年度に町で農家に対して実施した意識調査(「農」のあるまちづくり白書)では、積極的に農業を展開していくと答えた農家はわずか7.2%しかおらず、また後継者がいないと答えた農家は全体の30%もおりました。このようなデータから将来の町の自然面率(田・畑・沼・山林等)を予測すると、西暦2010年までに約140haの農地が減り、現在約50%の自然面率は、38.5%まで低下することが予測されます。

    「農のあるまちづくり」の始まり

     さて、ここまで話たところで、いくらか分かっていただけたのではないか、と思います。つまり「農のあるまちづくり」という言葉だけを聞くと「農業振興策か」と思われることが多いのですが、実はそう単純ではないのです。

    話を少し整理すると、

    1. 「宮代町は過去、農の資源、特に水田によって産業や生活、四季の変化に富んだ自然環境がなりたっていた」ということがそもそもの宮代のアイデンテティであり、そのことに誇りを持ち日々の生活を営んでいたのですが、
    2. 「宅地開発や時代の流れの中でベッドタウンとなり、農業は基幹産業ではなくなった」がために「田舎で遅れている、とか、発展しない町」といった意識が都市との比較において生まれてきて、そういう意識が「郷土に対する愛着を削ぎ」、それが益々、農家の意欲を削ぎ、それが町の自然を構成する「水田面積の減少を加速させる」という結果になってあらわれた。
    3. しかし、自分が生まれ、あるいは定住しようと決めた町に愛着のない人なんていません。将来に向けてまちづくりを行う上で、いつまでも自分の町を卑下し、東京に追随する非現実的な夢を追いかけていたのでは発展はないし、生産的ではない。かつ、自分たちの手でまちを作り上げて行こうとう気には永遠にならない。宮代町の多くの町民には非常に屈折した感情が存在していたのです。
    4. そこで、自分たちの町に愛着を持ち、一人ひとりが生き生きと活動し、輝いている町にするためには「自分たちの町に誇りを持つことが大切」だという着想になります。
    5. そこで「田舎」とは考えずに「恵まれた自然環境の町」と発想を転換し、「宮代は宮代であって、東京でも大宮でもない」「宮代は宮代」というナショナリズム?を展開する上で「農のあるまちづくり」が登場してきたわけです。さきほど遠回りして話した「メイドイン宮代トイレ」もその一貫であるのです。

    宮代から水田が消えて、マンションやビルが建ったらどうですか?
    昆虫も植物も埋め立てられ、
    当り前のように目にしていた緑一面の水田がなくなり、
    朝焼けの空に舞い降りる白鷺や
    夕日に染まる屋敷林
    蛙や蝉や鳥の声が
    ある日
    突然、生活の風景の中から消えたら
    どうですか?
    それを望んでいますか?
    まだ、間に合いますよ
    みんなで宮代のことを考えませんか

    ということを町民に問いかけたわけです。若い職員を中心にプロジェクトチームが結成され、毎月広報紙の1ページをさいて「農のあるまちづくりシリーズ」として16回連載したり、農業関連のイベントを町民の皆さんとともに実施したり、シンポジウムによって本音の意見をたたかわせたり、「農のあるまちづくり白書」という形で職員自身の手により、町の農業や農家、農地、それらが町の自然や歴史とどうかかわっているか、ということを本にしたり、という「町民へのなげかけ」という形で始まりました。そして現在に至っています。

     実は宮代町は巨峰を生産している首都圏では数少ない町の一つであり、コミュニティセンターの庭には葡萄棚があり、ある種町のシンボルとなっていますが、その巨峰が高齢化、と後継者不足により栽培面積が減少すし続けるという減少があり、「何とかしなければ」ということで職員が中心となって「巨峰」のイメージアップと町のアイデンテティ確立をめざして「市」を開催しました。これは生産組合や消費者グループに声をかけ始まったのですが、単なるイベントとしてだけは終わらなかったようです。以後、桜並木の下での農業市を実施し、それがきっかけで定期的な夕市が現在まで継続しています。

     嬉しいことに期を同じくして、それに呼応するように自発的に町民の中に「街おこし研究会」というグループが誕生して「桜の木オーナー」や「モロヘイヤを使った特産品作り」などを始め、行政が恐縮するぐらい積極的にまちづくりの活動を展開しています。

     また今まで行政とはある一定の線があってなかなか交わることのできなかった「生協」の皆さんや「環境問題に取り組んでいる」グループの皆さんが声をあげ「農のあるまちづくり」のもとに集まってきてくれました。

     こうしたことは予想もつかないことでした。皆さんが「農のあるまちづくり」や「宮代流・宮代的・宮代だからこそ」ということを我が意を得たりというように話す様子を見たり聞いたりしていると私がとった政策は間違ってはいなかったんだという思いでいるわけです。

     宮代町では、今でこそこの「農」のあるまちづくりという思想からまちづくり全体を見直そうとしていますが、このきっかけは昨日や今日起こったことではないのです。そのきっかけは平成4年度に行った職員研修で、「農」のあるまちづくりというテーマで政策研究したグループがあったのが始まりでした。職員の間にも「農業」の崩壊とそれにともなう、宮代町の自然環境が失われるということに危機感が生まれたのです。

     その後、本格的に「農のあるまちづくり」をすすめようということで、役場内に「農」のあるまちづくり推進委員会という庁内プロジェクトを作りました。とはいうものの、研修とは違って、政策となると話が違います。特にどのようにやれとか、教えてくれる人がいるとか、他市町に事例があるという訳ではありませんでした

     宮代町ではその効果と目的とするところを次のように考えています。職員が中心となって、研究をしたところによると、「田舎の象徴」としか見なかった水田や畑が多くあればあるほど、環境共生型社会に向けて非常に有利である、ということがはっきりとしてきました。そしてもちろん防災やゴミなどの生活環境、など環境未来指向のまちづくりには欠かせないものでもあります。

     こうした「農」の資源は都会人が欲しくても得られない貴重な資源ですし、言い方を替えれば、季節ごとに風景が変わる、初夏には緑一面の水田が秋には黄金色一面にかわる。贅沢でさえある、と思います。

    エピローグ

     現在の課題は「農」を「業」としてどう結び付けるか、ということです。そにについては現在職員が一生懸命「計画書」という形で作っていますが、あえて今、申せば「首都圏近郊の小さい町で農業をどう再生させるか」は農家だけの問題ではなく、町全体の問題であり、町全体とは消費者も含めた問題である、ということです。

     生産主体にはもしかして農家だけでなく団地に住む皆さんも含まれるかも知れませんし、流通は宮代の外に出なくて、町の中だけで完結するかも知れません。ごみを堆肥として利用できないか、都市と農村が共存する利点を生かした市民農園や市民水田はできないものか、など、これからが大変です。

     現実はそう甘いものでないことは今日ここにお集りの皆さんがよくご存じだと思います。もしかしたら理想通りに行かないで挫折するかも知れません。

     しかし、私はそれほど悲観はしていません。それは宮代町には郷土に愛着をもった皆さんが大勢いて、自分のことのように町全体のことを考え、汗をながしてくれる皆さんが大勢いるからです。小さい町には大きな町にはない、小さい町なりの利点があります。

     「農のあるまちづくり」はまだ始まったばかり、というかスタート台にたったばかりです。これからも宮代町は「メイドイン宮代」で「農のあるまちづくり」行っていきたいと考えています。

     おそらく、私たちの行なっている作業は一粒の種を大地に撒くのと同じことで、その種の成長には5年10年とかかるかも知れません。しかし、木に実が実り、花が咲き、種を落とし、いつしか一粒の種は百年、二百年後には大きな森にだってなるのです。 いずれにしても「種をまかなかったら永遠に始まらない」のです。

     農業の専門家を前にして、もしかしたら生意気なことを申し上げたことをお詫びして、話しを終わらせていただきます。

     長い時間、ありがとうございました。

    お問い合わせ

    宮代町役場企画財政課対話のまちづくり推進担当

    電話: 0480-34-1111(代表)内線214(2階11番窓口)

    ファックス: 0480-34-7820

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム